犯罪が起き容疑者が逮捕される。やがて検察官が起訴し裁判が開かれ判決が言い渡されて刑が確定する。事件が迷宮入りになったり、地方裁判所・高等裁判所・最高裁判所などの上訴によって有罪無罪が反転したり、更には再審請求(裁判のやり直し)がされる場合があるなど、刑が必ずしも一義的にしかも速やかに確定しないことがあるけれど、基本的には犯罪→逮捕→起訴→裁判という形で犯人と刑が確定するのが定番である。

 現在行われている司法制度が、どこまで理想的と言えるのか分らないけれど、少なくとも私たちはこうした三権分立のシステムが適用される世界を承認し構築してきた。司法の最終判断を裁判官のみに委ねるか、それとも陪審や裁判員など専門外の人たちをも含めた制度にするかなど、細かな手続はそれぞれに違うだろうけれど、私たちは犯罪の審理を司法制度というシステムに委ねることとしたのである。

 それは有罪無罪の判定を法律による審理に基づいて行うことを選択したのであり、それはそのまま法治国家に所属する私たちの義務であり責任でもある。私刑(リンチ)を認めず、同じような犯罪には同じような刑罰(量刑)が課されるであろうシステムを、私たちは「法律」という枠組みの中に求めたのである。

 私たちがどこまでそうしたシステムをきちんと理解しているかは、個々人により様々だろう。下された判断をどこまで自身の中で消化できるかは、結局個々人の思いの中にあるのだろうからである。100万円の盗みに対して、死刑にするか懲役10年にするか、はたまた執行猶予をつけることに納得するかは、被害者や犯人自身やその親族親族、更には無関係な第三者などでそれぞれ思いが違うだろうからである。

 それはそれとして、私たちはこうしたシステムの中で、「容疑者であるうちは犯人ではない」ことを基本としてきたはずである。それは仮に逮捕された容疑者が犯行の一部始終を、任意にしろ自白していたとしても同様である。そうした基本を私たちは、立場が容疑者であるとしても、あえて「推定無罪」と呼んでいたのである。

 ところが現実は違う。もっとも私の言う現実とはテレビや新聞を言うのであり、これ以外の情報を入手する手段が私にはほとんどないからである。だからそんな一方通行の情報を使って、「現実は・・・」とか「世の中は・・・」とか「世間は・・・」などと一くくりに判断してしまうのは、根拠としてはきっと狭すぎることだろう。それでも多くの人がテレビと新聞、もしかしたらテレビだけを手がかりにして物事を判断していることが多いように思われるから、私の思いもそんなに間違ってはいないように思っている。

 こうした世の中の判断が推定無罪とは違っているのではないかとの思いは以前からあった。それが最近のある事件を知ることで、一層そうした思いを強くしたのである。それは先月(9月)の14日〜16日にかけて、埼玉県熊谷市で起きた連続殺人事件であった。この間に起きた三組9人の殺人の疑いが、ある人にかけられた。最後に事件のあった建物の二階から飛び降り、頭蓋骨折で意識不明のまま入院している38歳のペルー人男性がその人である。

 まだ入院中で逮捕もされていない状況であるにもかかわらず、あらゆる報道が直ちに彼を犯人と名指しするようになった。確かにメディアの並べ立てる状況をみる限り、彼が容疑者である可能性は高いように思とえる。だがまだ彼は逮捕すらされておらず、容疑者と呼べる状況にはないのである。

 にもかかわらずメディアは彼を殺人犯と決め付ける。推定無罪などどこ吹く風である。出身地であるペルーにまで取材はおよび、兄が犯罪者であることや母親の「息子は無罪」とする訴え、近隣の彼に対する人柄などまで、こと細かに放映する。兄の犯罪がこの入院しているペルー人が疑わしいこととどんな関係があるというのだろうか。母の嘆きも、「息子は無罪かも知れない」との視点から放映されることはない。「息子はきっと犯人だけれど、母親の情として無罪を主張しているだけのことだ」とのメディアの思惑が見え見えである。

 つまり、母の嘆きも兄の犯歴も、疑わしいとされた本人の幼少期の作文や絵や近隣の噂などのことごとくが、メディアが作り上げようとしている「犯人像としてのストーリー」の構成要素になっているのである。母の嘆きが視聴者の同情を引きそうな場合には、顔を隠した同族や上司や近隣の人たちを登場させ本人の日常がいかにネクラであり付き合いにくい性格であったかなどの映像を付け加える。そうすることによって「一つのまとまった犯罪者としての本人の性格」を視聴者に植え付ける手段として昇華されていく。それでも足りなければ、この事件ではないけれど両親の離婚や貧しさなどの情報を挟み込むことによって、その彼の異常性は益々強固なものへと塗り替えられていく。

 このペルー人は、容態がほどほどに安定したところで殺人容疑で逮捕されたという。メディアはそれこそ鬼の首でもとったように犯人扱いに拍車をかける。本人は犯行を否定していると伝えられているにもかかわらず、彼がまだ容疑者の段階にあること、更には犯罪が確定するまで無罪の推定をうけるなどの思いをメディアは片鱗すらも見せようとはしない。

 私は彼が無罪だと言いたいのではない。事件の状況もほとんど知らないし、本人の容疑の度合いや証拠の状況についても分っていない。でも犯人と断定するのは裁判所であって、メディアや私たちではないことだけは頑なに信じているのである。

 もしかしたら、私たちはこのペルー人を犯人と決めつけたり、殺人犯として憎んでいるのではないのかも知れない。こんな言い方をするとこれまで書いてきたことと矛盾するかも知れないけれど、私たちの心の中には「犯人を作ることで安心する」という気持ちだけがあって、それ以外の事柄には無関心であるようにも思えるからである。

 そのことと「特定人を犯人と決め付けること」とはどこが違うかというと、これも私の勝手な想像なのだが世間は「犯人を作ること」だけが目的であって、別に「犯人は誰でもよかった」のではないかと言うことなのである。それはこの事件に限らず、いわゆる多くの事件が「犯人探し」だけに終始し、逮捕された瞬間からメデイァも国民もその事件には全くと言っていいほど興味を示さなくなってしまうからである。

 このペルー人を巡る事件も、審理はこれからである。これから起訴され長い裁判を経て犯罪事実が確定するはずである。ましてや逮捕された者が犯行を否認している事件である。更なる長期化すら予想される。にもかかわらず、これも私の感覚でしかないのだが、あれほど画面を賑わしていた事件であるにもかかわらず、その後テレビは全くと言っていいほどこの事件に関心を示さなくなってしまっているのである。

 被害者遺族やこの事件に関わる司法関係者などにとって、事件はまだまだ続くことになる。しかしながら関係者でない国民にとって、あの事件はすでに終わってしまった事件になってしまっているのではないだろうか。司法としてはまだ終わっていないとしても、多くの人にとっては興味ある事件からは外されてしまっているのである。そしてそれは多くの人に「ペルー人が犯人だ」という、決して許されることのない予断としての印象を記憶に残したまま確定させていくのである。

 それはまさに前述したように、「犯人を作ることで安心する」ことにある。それは裏返すと司法に対する信頼といえるかも知れない。しかしそれは、法治国家のシステムを理解しながらも「司法(警察や検察や裁判所など)が誤るはずはない」とする、偏った信頼であるような気がする。だから司法が「誰かを疑わしい」と言ったとたんに、その「誰か」がそのまま犯人になってしまうのである。そしてそこで事件は完結してしまうのであり、事件の犯人が確定した以上同一人による被害の拡大はないとして人々は安心するのである。

 こうした思い込みによって地域の安全は、少なくとも「その事件」に関しては確保されたことになる。人々は殺人の恐怖から解放され、空き巣や児童誘拐などの呪縛から解き放たれるのである。恐怖から解放されるということは、事件が終わったことと同じなのである。事件が終わった以上、犯人は誰でもいいのである。そこに疑われた者の人権であるとか裁判の経過などへの思いは消えてしまい、いつも通りの日常が戻ってきたことで事件には無関心になれるのである。

 かくして「犯人」と「容疑者」「疑わしいと思われる者」とは分離してしまう。「疑わしい」だけで事件が完結してしまうのだから、「特定の誰か」という固有名詞はもはや単なる付録でしかない。そしてそうした風潮にメディアも同調し、そこまでで報道への興味を急速に失ってしまうのである。

 だから私はメディアを信じない。あれほど国民には真実を知る権利があると豪語しておきながら、興味や関心だけで報道してしまい、容疑者の発生という一過性のことだけで無関心になってしまうメディアを、時に悪だとすら思ってしまうのである。まあそれに追随してしまう、いわゆる国民もまた同罪だとは思うけれど・・・。


                                     2015.10.15    佐々木利夫


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推定無罪