子供の頃はラジオの相撲放送に、それなり熱中していたような気がしている。吉葉山、千代の山、名寄岩などなど、今となっては死語みたくなった四股名を今でも思い出せるから、けっこう熱心なファンだったのだろう。

 それが大人になってどことなくスポーツ嫌いが身につきだした頃から相撲にも興味が薄くなり、さらに相撲の世界に外国人選手が増えだしてきたことが、そのことに一層の拍車をかけるようになってきた。

 だからこの頃は、それほど熱心に相撲中継を見ることもなくなった。それでも夕方のテレビにいつしか相撲中継が入ってきているのは、この時間帯には他に興味のある番組がないせいかも知れない。そうした見るともなしの「ながらテレビ」になっている相撲の中で、最近気になっていることがある。

 それは立会いの意味というか位置づけに対する力士や相撲協会や中継しているNHKの考え方についてである。相撲は二人の力士による直接対決である。二人の力士が東西から土俵に上がり、中央で見合って勝敗を決めるスポーツである。

 その時に土俵に上がってから勝負に至るまでの「互いに対峙している時間」、これが「立会い」と呼ばれるものでこうした対峙が数回行われてやがて勝負に入る。立会いの中で互いに相手の呼吸に合わせ、同時に勝負に出る瞬間を狙うのである。呼吸が合わないときは、仕切り直しとして再度立会いを繰り返しことになる。片方だけが相手と呼吸が合ったと考えて勝負に挑んだときは、仕掛けられた相手はいわゆる「待った」をかけ、仕切り直しとして再度の立会いをやり直すことになる。

 従ってこの立会いは「両者が同時に勝負に出るため」の大切な儀式であり、時間になるのである。もちろん勝負として決着をつけるのが相撲であることに違いはない。そしてこの勝負こそが相撲にとって一番の基本になっていることを否定はしない。

 だがこの立会いこそが、「勝負に出るための気合を充実させる時間」として、まさに真剣勝負と同等の大切な儀式になっているのだと思うのである。力士同士が同時に勝負に出ることによって、互いの実力がきちんと発揮できる条件を与えるための大切な場面になるのである。

 もちろんこうした公平な勝負の機会を与える場面は相撲に限るものではない。恐らくどんなスポーツでも、「これから勝負に入る」という「スタートとしての合図」は必須のものになっている。野球では審判による試合開始の「プレイ」の掛け声であり、マラソンや水泳などではピストルによる号砲、ボクシングでのゴングなどなどがある。

 だから恐らく勝負開始の合図のないスポーツなどはないだろうと思う。相撲の場合は、それが「立会い」になっていのである。ただ、他のスポーツが当事者以外の第三者による合図がきっかけになることが多いのに対し、相撲の場合は勝負する当事者による「互いの合意」をきっかけとすることに委ねたのである。

 つまり、勝負はすでにこの立会いから始まっているのである。両者がぶつかり合って業を競うだけではなく、互いが相手の呼吸を読み勝負の瞬間を決めるこの立会いから、すでに勝負は始まっているのである。だから立会いもまた真剣勝負なのだと言ったのである。

 しかし現実の立会いはこうした思いとは違っている。私は力士ではないので、土俵に上がった当事者がどのように立会いの意味を認識しているのか、必ずしもきちんと理解できているわけではない。しかしテレビの中継を見る限り、当事者も放送する側も放送を許可している相撲協会も、立会いの真剣勝負の意味をきちんと理解しているようには思えないのである。

 恐らくそれは相撲の本場所が必ずと言っていいほどテレビ中継され、それも午後6時までに終了することが約束されていることからきているような気がする。つまり放映の開始と終了の時間が決められたことから、必然的に一勝負に必要となる時間が予め決められることになったことにある。一定の数の力士がいるのだし、勝負をつけることがそれぞれの力士にとっての目的なのだから、必然的に勝負に必要な対決数も決まってくる。つまり、必要な取り組み数があって、その全取組みを決められた時間内に処理しなければならないとするなら、ここから必然的に一組の対決に要する時間が計算されることになる。

 この手段として、「立会い時間の制限」が設けられた。その時間がどの程度なのか、私にはきちんと分かっていないのだが、一勝負の立会時間が例えば2分とか3分に決められたのである。つまり「立会いのための制限時間」が設けられ、立会いにあまり長い時間をかけることができなくなったのである。そしてこの時間を超えることのないように、予め相撲協会の職員が土俵上の力士に「時間が迫っていることを宣告」をして、その「時間を越えての立会いを認めない」、「相手との呼吸が合わなくても勝負に挑め」と強制されるようになったのである。

 こうした考えを一概に否定はしない。だらだらと気力のない立会いを無期限に続けられても、主催者としても観客としても迷惑だろうからである。だが、この「制限時間」を作ったことが「立会い」そのものを変節させてしまったと私は考えている。

 制限時間を2分と決めたからと言って、その時間になるまで勝負してはいけないことの理由にはならない。相手とのタイミングが合ったなら、一回目の立会いで勝負に入ってもいいはずである。三回目に呼吸が合ったなら、その時に相手と組み合ってもいいはずである。だが現実は違う。土俵に上がった力士は、制限時間の宣告がされるまで勝負に出ようとしないのである。少なくとも私の見ている限り時間内に勝負に出るような力士は一組もないのである。それどころか、相手と呼吸を合わせようとする気配さえ見せないのである。つまり、立会いは勝負のための呼吸合わせの儀式なのではなく、単なる「暇つぶしの時間」、「セレモニーとしての無駄な時間」に変節してしまったのである。

 そうした思いは瞬く間に当事者たる力士以外にも伝染した。少なくとも放送するNHKに伝わり、そうした放送を許可した相撲協会全体に広がった。どうして分るか。それはテレビが「立会い」を放送しなくなったからである。この時間帯は直前取り組みのスロー再生、解説者のうんちく、金星を上げた力士へのインタビュー、過去の取り組みの再生などなどに費やされ、本番として登場している力士の立会いには使われなくなってしまっているのである。

 そして本番が中継されるのは、やがて制限時間の宣告がなされて両者の勝負が始まるときであり、それでやっとカメラは現在の土俵に向くのである。立会いは全くの「無駄な時間」として評価されているのである。私に言わせるなら、「そんなに無駄な時間なら、そもそも立会いなどというシステムなどなくしてしまえ」と思ってしまう。。そうした意識はまさに立ち会っている力士当事者に始まり、テレビカメラに伝染し、相撲全体にまで拡大し、そしてついに観客・視聴者にまで広がってしまっているのである。

 もし立会い一発で勝負に出る取り組みがあったり、二発目・三発目で立ち上がるような勝負があったとしたなら、きっとテレビは「立会い」以外の番組を放映をすることなどないと思うのである。視聴者も真剣に立会いの画面に見入り、力士も立会いを大切にし、相撲協会も立会いの意味をきちんと理解するようになると思うのである。でも現状は力士も協会も、そして視聴者を含む観客も、つまり日本人全体が「立会い」を意識しなくなったのである。

 だとするなら「立会い」が持っていた本来の意識はもう死んだのかも知れない。そして更に、だとするなら、そうした現状に私が異論を唱えることなど、無駄なことなのかも知れない。そして私は思うのである。「相撲は本番の勝負よりも立会いの真剣勝負にある」との思いが否定されてしまうのなら、いずれそれはスポーツとしての相撲としてはともかく、私たちが愛してきた相撲そのもののとしては死につながってしまうのでないかと・・・。


                                     2015.9.30    佐々木利夫


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大相撲と立会い