証拠隠滅はそれ自体が犯罪である(刑法104条)。ただこの犯罪は「他人の刑事事件に関する証拠を隠滅し・・・た者」に適用されるのであって、例えば殺人者自らが殺人に用いた凶器を隠したとしても、そのこと自体が罪に問われるわけではない。これは、「隠す」という行為は、人間の自然の心情からして止むを得ないと思われること、仮に殺害と隠滅とが数日、数ヶ月、数年と時間的に離れていたとしても、それらは一体の行為として考えられているからであろう。

 ところが新聞・テレビなどのメディア報道になると、どうもこの区別のつきにくい解説が多いような気がしてならない。刑事裁判に関してはほとんど知識のない私なので、「いわゆる本人の行った隠滅行為」が量刑にどこまで影響するのか、それともまったく無関係なのか、その辺のことを必ずしも知っているわけではない。恐らく「隠滅行為」によって捜査が難航するケースが多いだろうことは推察できるから、隠滅の手法内容によっては量刑に影響を与える場合があるのかも知れない。

 ただその場合でも、それはあくまで量刑という情状の問題であって、隠滅そのものが独立した犯罪として処罰されるわけではない。

 最近(2015年7月19日夜)、愛知県で65歳の男性が男子高校生に刺殺されるという事件が発生した。高校生は男性を刺した後に奪ったショルダーバックを近くの空き地に捨て、刺したナイフを川に捨て、そして返り血を浴びた体を近くの公園の水飲み場で洗ったとされている。更に帰宅後に血のついた衣服を洗ったとも言われている。

 こうした一連の行動に対して新聞は、「県警は、少年が・・・証拠の隠滅を図りながら帰ったと見て調べている」と報じている(7.22、朝日)。

 私はこの高校生の行動を決して正当化するつもりはないけれど、盗んだものや凶器などを見つからないように捨てたり、血のついた手足や衣服を洗ったりするのは、犯罪者としての当たり前の行動ではないかと思うのである。「犯罪を犯したなら、直ちに自首すべきである」は、一見いかにも正しいことのように思えるけれど、隠そうとすること、見つからないようにすること、自分に疑いがかからないようすること、場合によっては逃走をはかることなどは、犯罪者の心理としてはむしろ当たり前のことではないかと思うのである。

 「自首」と「逃亡・隠滅」とは、犯罪者の行為としてどちらが正しいか、そんな議論がそもそも成立するのだろうか。だからと言って私は、犯罪者の逃亡や証拠隠滅などの行為を正当化したいと思っているのではない。犯罪を犯したのだから、正当な裁きを受容すべきであることは言うまでもない。逃亡や隠滅などの行為は、恐らく警察などの司法機関にその発見や立証などのための多くの費用や手数をかけることになるだろう。

 だからと言ってそれを悪いことなのだと断ずることにはどこか引っかかるのである。逃げることは犯罪者としては当然に考えることではないかと思うからである。自分の犯罪が見つからないように死体や凶器を隠したり、アリバイなどを偽装したりするのは、私には犯罪者の行動として素直に理解できるからである。

 この高校生の事件でも、新聞は決して「証拠隠滅罪」になると言っているわけではない。だから証拠隠滅と証拠隠滅罪とは異なるのだと言われたなら、返す言葉がない。だが高校生は自らの犯行を隠すことに決めたのである。だとするならこうした一連の行動は、それを正当として認めるというのでは決してないけれど、「理解できる行動の範囲である」ように思えてならないのである。

 それを報道はあたかも「自分の犯罪でも逃亡や証拠の隠滅を図る行為は」独立した犯罪でもあるかのように書き、そのことを更なる悪であることの誘導にしてしまっているのが、どこか納得できないでいるのである。つまり、報道は「量刑の範囲」であることを超えて、「あらたな犯罪の成立」、そしてその糾弾にまで及んでしまっているのではないかとの疑問が生じるということである。

 くり返すけれど、私は逃亡や証拠隠滅などの行為を是認したいとか、承認したいというのではない。ただ、そういう行為に走る犯罪者の行動は、「人として理解できる範囲にあるのではないか」と言いたいだけなのである。そしてそれが人としての弱さでもあると思っているのである。「人は多く場合嘘をつく」これが本性だと思っているからでもある。


                                     2015.7.23    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 
証拠隠滅の範囲