数日前のテレビのニュース番組の中での出来事である。以前に放映したある報道についての訂正を知らせるものであった。「同姓同名人の写真を間違って放映してしまいました。誠に申し訳ありません」とのことであった。そしてアナウンサーはこともなげに、「次のニュースです・・・」と続けていく。そのことにどこか違和感が残ってしまったのである。

 それ以上詳しく訂正の内容が伝えられることはなかったから、視聴者である私にはその誤報道についてはこれだけのことしか分らない。恐らく放送した写真を間違えたことに対して、放送局内部では担当者に対してそれなりの注意処分がなされたのかも知れない。また、間違えられた本人には社内から菓子折りなどを持参して謝罪が行われたかも知れないし、会社のしかるべき責任者が謝罪に行ったのかも知れない。

 そうした経緯をまるで知らない私、しかも間違えられた側と利害関係はおろか無関係というほどの関係すら有していない私が、こんなところで違和感という感情を持ち出すのは、早とちりというか間違った評価につながる恐れがある。それでもなお私の中で、「訂正報道とは何なのか」が気になってしまったのである。

 「間違ったのだから謝罪する」、そのことに何の問題もないだろう。ただその謝罪の報道に込められるであろう思いが、こうした謝罪のパターンから私には少しも伝わってこなかったのである。謝罪の報道と次のニュースへのあまりにも無機質な移行に、「謝罪であることの感情」が少しも伝わってこなかったのである。

 次々と軽重も善悪もランダムに発生するニュースである。そうした一つ一つに気持ちを含めたり感情移入をしないことが、ニュースの使命でありキャスターなり放送局としてのありうべき基本的な姿勢であろうことは分る。感情を排して事実のみを淡々と伝えることが報道機関としての使命であり、ニュースに関してはなお更に大切な姿勢であろうことは分っているつもりである。そうした意味で、「間違った報道をしてしまったことを謝罪する」ことも、一つの「事実の報道」になるだろう。

 だが他者なり他人の謝罪をニュースとして伝えることと、自らが謝罪することとは違うと思うのである。ニュースとしての報道は「事実としての報道」で足りると思う。その報道で「謝罪者の謝罪する気持ち」が伝わってこないのなら、それは報道側の編集という側面もあるかも知れないが、基本的には謝罪する側の謝罪の仕方に原因があると思うからである。

 ところが私がここで取り上げた「謝罪」は、そのニュース番組が自ら犯した間違い報道の謝罪であり、そしてその番組を作成した報道機関そのものの謝罪なのである。だから他者や他人が犯した「誤写真のニュースを報道したことに対する謝罪」という、事実の報道とは決定的に異なるのである。

 そこのところの違いを、謝罪メッセージを読み上げたキャスターはきちんと理解していなかったような気がしたのである。キャスターは確かに「謝罪」を伝えた。だがそれは「謝罪した」のとは違うのである。「謝罪内容」が書かれた原稿をカメラの前で読んだだけなのである。

 恐らく読み上げたキャスターは、自身が誤報道の主体者ではないのかも知れない。仮にそのキャスターが誤った報道をしたのだとしても、その写真を用意したスタッフなり関係者が間違ったのであって、それを放送したキャスターには何の過失も責任もなかったのかも知れない。

 それは例えばその放送局の誰かが殺人を犯したとして、その事実をキャスターが伝えたとしてもキャスター自身が殺人者でないことは明らかなことと同じだからである。キャスターは殺人があった事実だけを報道したに過ぎないからである。

 だがそれと今回の誤報道に対する謝罪とは少し違うような気がする。「誤報道したことを放送局が謝罪した」、そうした事実をニュースとして伝えたのではないと思うからである。キャスターのした謝罪は、事実の報道ではなく「放送局として誤報道したことに対する謝罪」そのものなのである。キャスターがどこまで放送局を代表して謝罪することが可能かは必ずしも分らない。ただ私は、少なくともその謝罪は「謝罪した事実の報道」ではなく、謝罪すべき責任者の行う「謝罪そのもの」だと思うのである。

 だからその言動に「謝罪の真意」がこもっていなければ、それは「謝罪にならない」と思ったのである。単に「謝罪のフリをしている」だけだと思ったのである。

 人の心は見えない。涙して、土下座して、それで真意が見えるのかと問われるならば答えは否定的である。神は人を互いに理解できないような存在として作ってしまったので、どんな真意も目にすることはできなくなった。言葉や態度で示すことは可能なのかも知れないけれど、その言葉やその態度がどこまで真意を伝えられるかはどこにも保証がない。

 言葉には真実を伝える「言霊」が含まれており、態度は真意を示すものなのだと、私たちは長く信じてきた。かつて借金の証文に、「弁済ができなくなったときは、満座の中でお笑い下さるべきそうろう」との一文が担保として含まれていたのを私たちは知っている。発した言葉には「魂」、命や人格が含まれていたはずである。だが現代はそんな思いを自ら壊してしまった。壊された言葉は誠を伝える機能を失った。涙も号泣も、時にしらじらしく感じられることがあり、それでいいのだと承認している私たちがいる。

 こうした思いは、ここで取り上げたニュースでの謝罪報道だけに限るものではない。「お詫びします。再発防止に努めます・・・」。私たちはこうした言葉や姿勢をこれまでどれほど聞き、見てきただろうか。そうした状態はそのまま今でも続いている。そしてそのたびにそうした言動の実効が疑わしいこと、謝罪は単なる言い訳にしか過ぎないことを繰り返し知らされてきたことだろうか。

 対外的に示す「謝罪」が一過性の儀礼にしか過ぎないことを私たちは、当たり前のこととして認めてしまったのだろうか。謝罪を発信する側も、それを受ける側も、互いが単なる形式的な通過儀礼にしか過ぎないことを承認してしまっているのだろうか。

 だとするなら私たちは、どこかで大切な思いを捨ててしまったことになる。それは謝罪する側、受ける側の双方に責任がある。発信者は発信の仕方を失い、受信者は謝罪を受ける心を忘れてしまった。そしてそれを、「それが人間なのさ」と割り切ってしまうことの中に、現代人が内蔵している底知れぬ恐怖がある。


                                     2015.11.5    佐々木利夫


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