天気予報はまさに「予報」なのだから、結果が外れる場合のあるだろうことを否定はしない。外れることの危険性を承知の上で、それでもなお少しでも午後の、明日の、来週の天候を知りたいと思う気持ちが、予報と言うシステムを支えているのだと思う。

 予報システムには、当然に「予報する側」と「予報を受ける側」の二つの当事者が存在する。受ける側の立場は前述したが、提供する側にはその目的が単なる自己満足ではなく受ける側へのサービスなのだから、当然にその精度を高めていくことが要求される。それはこの行為が無償による善意のサービスなのではなく、税金を使った国家プロジェクトなのだから当然と言えば当然のことだと思う。むしろ精度の向上は、当然を超えて提供する側の使命であり義務であると言ってもいいかも知れない。

 ところでことは天気予報なのだから、必ず結果が伴ってくる。つまり予報と結果とが、どんな場合にも事実として対比できるということである。「明日は雨」と予報したとする。明日という事実は間違いなく巡ってくるのだし、明後日になった時点で「予報」と「結果」とは明確に対比できる状態になっている。つまり、天気予報に関する限り、予報と結果とは常に一対一で検証可能になるということである。

 ところがこれまで、こうした検証結果が実際に国民に報告されたことなど一度もなかったように私は感じている。落語に、ふぐを食うときに前もって「天気予報、天気予報、天気予報」と三度唱えるという人物が登場する。つまりこの登場人物に言わせると、こうした呪文を唱えることで、ふぐの毒に「当たらない」というのである。かようなジョークにされるほど、天気予報というものが当たらないのが当然であるとするなら、それはそれでいい。天気予報とは当たるも八卦、当たらぬも八卦の世界に所属しているのだと割り切ってしまえるなら、その予報が外れたところでどうってことはない。

 でも公的なサービスとして情報を提供しているのだから、そのサービスを「信頼する」のは聞く側としての当然の思いである。そしてそうした信頼に応えるのが提供する側の責務ではないだろうか。もちろん予報なのだから、「100パーセント確実」ということはないだろう。でもその「信頼できる程度」を国民に知らせるのは、提供する側の義務ではないだろうか。いつまで八卦の上にあぐらをかいて、予報なのだから当たる場合もあれば外れる場合もあるとの思いの中に私たちを放置したままにしておくのは、間違いだと思うのである。

 どんな形で検証結果を数値化し公表すべきかは難しいだろう。「明日は雨」の予報だって、朝の5時頃に30分くらい降っただけでほとんどの通勤客に影響がなかったような雨と、午後6時頃に多くの会社帰りのサラリーマンの肩をたっぷりと濡らした30分の雨とでは、同じように100点満点の予報精度として表現していいかどうかは必ずしも分らない。ただ、いずれにしても何時から何時までこれこれの量の雨が降ったことは、事実として検証でき数値化できるはずである。

 もちろん予報から受ける影響の程度は人様々であろうし、地域による差もあるだろう。「札幌は雨」と予報したとき、中央区に30分降っただけで他の区域は快晴だったという場合があったときにそれを予報が的中したと理解していいのかどうかも難しいだろう。そうしたことは例えば同じ中央区の雨でも、西区に隣接した中央区の一部では降らなかったという場合もあるだろうし、隣接した北区の一部にまで雨が及んだということもあるだろうから、そうした場合の精度の表現の仕方もまた難しいだろう。

 そうした難しさを前提としつつも、予報の不確定さを理由に「検証しない」、「検証結果を公表しない」とする意思決定に妥当性を認めることは許されないと思うのである。検証できる事実が毎日毎日、必ず明らかになっているからである。

 気象予報がどこまで科学的なのか、私は必ずしもきちんと理解しているわけではない。それでも「予報なんだから当たり外れは当たり前だ」とするほど、占いに類似したものだと考えているわけでもない。それは、気象観測衛星を打ち上げ、世界最速とも言われるコンピューターを駆使し、日本全土に雨量や風速などの観測網を張り巡らしているのだから、その成果を占いと同一視することはできないだろう。

 今日のテレビ番組、コスミックフロントNEXTは気象衛星から見た地上の雲の動きであった。高精度な連続画像は見事なものであり、まさに「科学」を示すものであった。もちろん気象衛星は気象のみを観測しているものではない。可視光によるもののほかマイクロ波による各種の環境調査・遺跡調査など地表はおろか地中の情報収集にまで活用されている。

 何をもって最先端と呼んでいいのか自信がないけれど、気象予報システムは科学の最先端ともいうべき位置づけにあるのではないだろうか。もちろん気象庁の仕事は天気予報だけではなく、地震や津波、火山活動など多岐にわたっているだろうことは分る。だからと言って天気予報が占いの分野に止まっていていいものだとは思わない。だから気象での利用が十分でないことをもって、衛星そのものを否定することは早とちりかも知れない。

 それでもなお、気象庁がこれほどの科学的なデータを得ているにもかかわらずその検証結果を公表していないことは、もしかしたら検証していないのではなく、検証結果を公表することのデメリットを恐れているのではないだろうか。そしてその最たるものは「信頼の喪失」を危惧していることにあるような気がしている。

 つまり、こんなにも多額の国民の税金を投入しているにもかかわらず、現実が「当たる天気予報」になっていないことである。天気予報が当たらないことは、多くの国民が実感しているところだろう。そんなときにそうした実感を裏付けるような「当たらない」検証結果を公表することは、天気予報に対する信頼、更には気象庁という組織やシステムに対する信頼そのものが瓦解してしまうと恐れているのではないだろうか。

 もし「当たらない」ことが天気予報の宿命だとするなら、予報に多額の税金を投入することは無駄遣いである。恐らく気象庁も天気予報の精度を上げるために、努力しているのかも知れない。それでもなお「当たる天気予報」にならないという事実は、もしかしたら気象庁自らがそうした「当たる天気予報にするための努力」をどこかで放棄しているか、もしくは「そんなことは無理だ、不可能だ」と諦めているのではないだろうか。

 問われているのは予報業務である。どんなに科学的な手段が発達したところで、その精度が目に見えて向上していくことを望むのは難しいのかも知れない。だとするなら国民もまた、その精度を少しずつでいいから向上させていくことが、予報というシステムを維持していくためにはふさわしいのだと、理解すべきなのかも知れない。

 ならば一層、予報と検証結果とをセットで国民に示すのが予報する側の責任だと思うのである。予報が外れること、外れる場合のあることをきちんと検証データとともに呈示した上で、それでもなお予報を必要とするのか、どの程度の予算を投入すべきなのかを国民に問いかけるべきだと思うのである。

 このままでは、天気予報に対する国民の信頼はますます遠のいていくだろう。「この程度の予報ならいらないや」と拒否されるようになってしまうのではないだろうか。「明日の天気は今日の天候と同じです」と言うだけで、50パーセント以上の正確さでの予報になると聞いたことがある。つまり予報とは、単に「明日は今日と同じ」というだけで事足りると言う説であり、だとするならそこには何の予算も必要としないことになる。

 明日の天気、週間予報、長期予報、そして災害警告などなど予報は多岐にわたっていき、更に地域や地区を細分化する方向へと進んでいく。そうしたいわゆる「きめ細かな予報」は、予報と結果を検証するための事実を、残酷なほど具体的なデータとして目の前に呈示する。それを知りながら、そしてそれが検証として使えることを知りながら、あえてそこから目を背けたままでいることは予報する側の怠慢であり、責任回避だと言われても仕方がないのではないだろうか。

 検証のないまま天気予報は、地域の細分化や親切の押し売りとも思えるような予報だけの分野に拡大していっている。加えて天気に関する地方の諺や世界各地の伝承などと言った、少なくとも聞いている側には何の意味もないと思われる情報が、これでもかと言うほどにも付加されるようになってきている。そんな今の天気予報の報道のあり方に、私はどこか危惧を感じているのである。


                                     2015.9.17    佐々木利夫


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天気予報の検証