現在放送されているNHKの大河ドラマのタイトルは「花燃ゆ」である。この物語は、幕末から明治にかけての長州藩(山口県)の萩地方で叔父の私塾を引き継いだ吉田松陰の「松下村塾(しょうかそんじゅく)」をめぐるものである。それほど大河ドラマに興味がなく、また吉田松陰にもあまり知識のない私なので数回しか見ていない。ただ10数年前にこの地を妻と観光旅行で訪れたことがあり、どことなく馴染みがある程度のイメージは抱いている。

 この松下村塾の考え方や塾生の行動がどうのこうのと言いたいのではないけれど、物語を見ていているうちにこうした集団とテロ集団との違いが少しずつ分らなくなってきたのである。思った動機は単純である。時の政府のやり方や見解に、場合によっては武力をもって対抗する手段がどこかテロ行為と類似しているような気がしたからである。

 もちろん松下村塾が武力を目的とした集団でないことは理解している。だが自らの意に沿わないような方針を他者が抱いているときに、時として説得よりは暴力を使おうとする塾生がいたことは事実である。恐らく塾としては暴力を否定しているのかも知れないし、それは塾長である吉田松陰の思いでもあっただろう。だが、仮に力ずくでないにしても、何らかの実力行使を相手を説得するのではなく自らの意思として実行してしまう思いを抱いていることもまた塾長の意思でもある。

 それはどんな理屈をつけて反論しようとも、塾生のほとんどが若くして自刃していることから分る。幕末から明治にかけて幾多の「・・・乱」とか「・・・大獄」などと呼ばれる政争の渦中に彼らは身を挺したのである。そして現実に剣を交えた騒乱の中で塾生たちは、まさに身命を賭して尊皇攘夷の思いを遂げたのである。そうした行為が高邁な思想に裏打ちされ、その後に来る新しい日本の礎になったであろうことを否定するつもりはない。だがその背景に「自らの主張のためには暴力に頼ることもある」ことを自認していた事実を、否定することはできないだろう。

 恐らく松下村塾をテロ集団だと評価するような考えは、地元にも学者にもそして歴史的にもきっとないだろう。だがテロ集団とは一体何を意味するのだろうか。ある集団が自らの集団と対立する集団に対して、説得あるいは訴訟などの暴力以外の手段によって対抗しようとする例は、恐らくいくらでもあげることができるだろう。だがそれと同じくらいに、力を持ってする暴力、暴力類似の暴力、言葉による暴力、育児などの放棄による暴力、更には武器を用いた暴力などによって事態の解決を図ろうする例もまた、私たちはあまりにも身近に知っている。

 一番かどうかはともかくとして、身近な例として家庭内暴力や介護現場や養護施設などでの言葉や力による暴力がある。それは集団による力の行使ではないからテロとは違うというかも知れない。だがいわゆるケンカなどを含めて思うのは、人はえてして力によって物事を解決しようとする性格を持っているということである。個人対個人のケンカをテロだという人はいないかも知れない。だがその萌芽である暴力を行使するという内心は、私たち個人の思いの中に潜んでいるように思えるのである。

 個人をもう少し拡大してみよう。一方が複数または組織でもう一方が個人ならどうだろうか。学校でのイジメがそうである。個人間のイジメがないとは思わないが、私たちが耳にするイジメの多くはイジメル側が複数であることが多い。その複数が仮に個人の主体者一人とその主体者に付和雷同する意思の弱い協力者による複合体だったとしてもである。ときにその付和雷同は教室全体にまで拡大してゆく。私に言わせるなら無関心を装うっている「私は関係ない」みたいな態度の集団もまたイジメ共同体であり、無関心をそ装う者もまたその構成員になっていると思っている。だがここでもこの集団を人はテロと呼ぶことはない。どうしてなのだろうか。

 集団をもっと拡大していくと、たとえば労働組合と経営者側の対立がある。ストライキやロックアウトがどの程度までなら法律に違反しないのか、私がきちんと理解しているわけではない。だが、労働交渉が時として意に沿わない相手側に対する暴力や監禁などにまで発展する例を私たちはたくさん知っている。これでもまだ私たちは労働組合をテロ集団とは呼ぶことはない。どうしてなのだろうか。

 もう少し拡大してみようか。飛行場やごみ処理場や原発などの設置、更には沖縄基地問題や反戦集会などで多くの人が反対を掲げてデモ行進に参加する。こうした行動は、小さい場合は地方行政に対する抗議であり、場合によっては時の政府の見解なり行動に対する反対である。この反対運動はテロなのだろうか。暴力の行使がないからテロではないと言うのだろうか。ならば、デモに参加した人たちの一人なり複数人が暴力に走ったら、そのとたんにその集団はテロ集団になってしまうのだろうか。それとも暴力を振るった人だけがテロリストなのだろうか。それともそれとも、こんな程度ではまだテロと呼んではいけないのだろうか。

 私たちは得てしてテロを「時の政府に対し武力を伴った抗議をする集団」と定義しがちである。だが「時の政府」とは一体なんだろうか。「自分たちの意に沿わない政治を行っている政府」と言い切ってしまっていいのだろうか。それでこと足れりとするなら、選挙や住民投票などの目的はどこにあるのだろうか。

 「気にいらない政府」を承認してしまえるなら、パルチザンも戦時下に祖国を防衛するために組織された住民も、更にはナチに反対した多くの個人や集団もすべてと「時の政府」に対するテロになってしまう。恐らく「今となっては」のカッコ付きではあろうけれど、現在の民主主義の基盤となっているであろうアメリカ・イギリス・フランスなどの連合国や日本を含むいわゆる先進国と呼ばれている多くの国々、そして今から70年前に終戦となったこの第二次世界大戦でヒトラーやスターリンやムッソリーニなどの凶行に武力をもって闘った正義の味方と評価され、戦争勝利の立役者として尊敬されている人たちや国民や組織などのすべてが「時の政府」にとってはテロだったということになる。

 ならば、テロとは「そのテロ行為が終結した後において、勝利した側に反抗した武力集団である」と理解していいのだろうか。つまりヒトラーの行う戦争に反抗したあらゆる国の地下組織は、「それまではヒトラーにとってのテロ集団だった」けれど、ドイツの敗退によって素晴らしい愛国集団に変質したと理解してもいいのかということである。つまり反戦地下組織は連合軍が勝利したからこそ愛国集団と呼ばれているのであって、もし仮にヒトラーが勝利したならばその時点でテロとしての宣告を受けたとしてもやむを得ない、そんな風に理解してもいいのだろうかということである。

 これも一つの解釈である。つまり「勝者に反抗した者はテロ」もしくは「テロの判断は勝利者が決める」という定義である。これは極めて分りやすい。勝者のみがテロを認定できるとする理屈は、現代の世相にもよく合致しているように思える。「イスラム国」と自称する集団は、アメリカに武力で敵対しているからテロと認定されるのである。ウクライナに侵攻しクリミア半島を占拠した親ロシア派と称する団体を、ロシアはテロ集団とは認めていないこともよく分る。

 まだまだある。2015.4.11にアメリカのオバマ大統領はキューバのカストロ首相と会談し、「キューバのテロ支援国家の指定を解除する用意がある」と述べたとされる。テロとテロ支援国家とはきっと違うのだろう。だが実質的にどこが違うのだろうか。そしてキューバは果たして世界が認定するテロ支援国家なのだろうか、それとも単にアメリカだけが考えているテロ支援国家にしか過ぎないのだろうか。北朝鮮もそうである。イランもそうである。アメリカは最強国だから、アメリカが宣言した「テロ支援」は常に世界の意見であり正義とみなされるのであろうか。

 私たちが安易に使っている「テロ」または「テロリスト」の文言も、我が胸にしっくりと収まるような解釈を考えていくと果てない混乱に陥ってしまう。私たちは「勝者の論理」をあまりにも安易に、そして無批判に受け入れ過ぎているのではないだろうか。

 今日は統一地方選挙の投票日である。北海道では「知事」「道議会議員」「市長」「市会議員」の選挙がまとめて実施される日である。昨日まで途切れることなく続いていた選挙カーや街頭演説のがなり声が、一転して嘘のように静まりかえっている。今夜からの即日開票で再びテレビは騒がしくなるだろうが、選挙は普段自らが当たり前に思い、無批判に信じているかのような他者への依存体質に対して、「ちょっと待てよ」と胸に手を置いてみる機会を与えてくれる貴重な場なのではないだろうか。


                                     2015.4.12    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 
テロの意味