国連の専門機関であるユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の指定する「世界遺産」の人気が高い。ただ本来の「遺産」としての価値よりも、国内外の観光客の誘致に目的があるように思えるのがいささか気がかりである。まあ仮にそうだとしても、「遺産としての価値」の反射的な効用が結果的に観光客を呼び込むことの要因になっているのなら、そこまで目くじらをたてることもないだろう。

 ところで世界遺産は、1972年のユネスコ総会で採択された世界遺産条約の締結国で構成する委員会が指定することとされている。委員となっている国は21か国で、毎年各国からの申請のあった世界遺産候補の中から決めているようである。

 ところで今年はドイツのボンで選定会議が行われ、ドイツが議長国だと報道された。そのことをとやかく言うことはあるまい。ただ気になったのは、この委員会での決定に当たり、議長が「全員一致」を条件としたとのマスコミ報道がなされたことについてであった。それは日本が立候補した日本の産業革命を象徴するとした10個所ばかりの遺産群の選定・指定についてであった。

 この指定に関して韓国が否定的な意見を持っていたことが原因である。この遺跡群の中には、韓国から強制的に連行された労働者が従事しており、それに触れないまま「日本の産業革命の成功」みたいな標語を掲げることに反対したためである。そのことの当否は問うまい。ただ議長がこの指定関して多数決ではなく、増してや議論を重ねることでもなく、選定を投票者の全員一致を要件としたのである。

 私はもちろん決定方法に対するユネスコの規定、つまり世界遺産条約に定める世界遺産指定の方法に関する規定の内容を知らない。だから指定方法について「全員一致が要件とされている」と言われたなら、何も返す言葉がない。これから書くことも的外れな意見になってしまうだろう。私の考えの背景には、「議長が独断で全員一致を要件とした」とする思い込みにあったからである。

 会議などで全員一致の結果が得られることがないとは言えない。むしろ反対する意見がなくて、全員一致の結果が得られることが望ましい場合さえあると思っている。でもそれは「前提としての全員一致」なのだとするなら、その考えは間違っていると思うのである。「結果的に全員が賛成した」というなら分らないではないし、望ましいことと考えられるかも知れない。いくつかの意見があり、それについての様々な意見が交わされ、その議論の結果として全員が一致する意見が得られたのなら、その表決を私は大賛成で受け止めることができる。

 たとえその表決が他者や反対者から見て非常識な結論であろうとも、決定権者全員の意見が一致したのなら、それはそれできちんと認めるべきだと思うからである。それが仮に「戦争」や「死刑」や「人権無視」につながるような問題であろうとも、全員一致であることを理由として反対することは間違いである。それは決定権者を選択し、その者に決定を委ねた者の当然の責任だと思うからである。

 だが「最初から全員一致を要件とする」ことは間違っているのではないだろうか。それは「反対する一票」の価値だけをを不当に高めてしまうからである。「表決によって決定する」ことの前提には、その表決におけるそれぞれの一票の重みが等しいことがあると思うからである。

 こんなシステムを許してしまうなら、そもそも表決だとか投票などによってある結論を得ることの意味がまるで失われてしまうと思うのである。今回の決定に関しても言われたことだか、「決定の目的に無関係な主張である」との意見が、まるごと無視されてしまう危険があるのである。

 無関係な主張であるのかどうかについて、私の知識はない。「無関係な単なる横槍に過ぎない」のか、それとも「選定に関わる重要な主張」なのかについて、会議の場で十分に討論しその上で一つの結論を得ることが、「選定に関わる者」の責務ではないかと思うのである。

 「全員一致」を最初から前提にしてしまったら、どんな理不尽な主張も「決定するための障害」になってしまう。たとえその主張の理不尽である理由がどんなに明らかであっても、「全員一致」を要件とする限りその理不尽さを乗り越えて合理的な判断を下せないことを意味する。それは「決定する組織」そのものの崩壊である。決定する者の責任放棄である。さらには「決定する」こと自体の無意味さである。

 「根回し」という言葉が日本人の習慣には根強く染み付いている。あらかじめ反対意見が出ないように、反対意見を述べそうな者への説得工作をすることである。「全員一致」を得られたことで、その決定はいかにも合理的であるかのような形式を作ることができる。

 だが「根回し」とは、合理的に説得できるだけの資料や根拠のない提案を、資料や根拠のないまま決めてしまうことの無謀さを示している。「根回し」はむしろ、誤った結論への誘導を「全員一致」の糖衣にくるんでしまうことを意味しているのである。

 「根回し」の対価に何を利用するのかは様々であろう。私には分らないけれど、例えば「金銭」、例えば「権力」、例えば「他の場面における理不尽な妥協」、例えば「交換条件」などなど、ざっと考えただけでも「正論」となるような項目は見当たらない。泥にまみれ、汚辱にまみれ・・・、そんな手法を日本もまた相手から使われるだけでなく、自らも使うのだろうか。そしてそれを「外交」という名の下に、私たち自身が承認しなければならないのだろうか。


                                     2015.7.16    佐々木利夫


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全員一致の疑問