人がそれぞれ自らの信ずるところによって物事を判断することが間違いだとは言えない。時にその基準が個人の利害に偏っていたり、神がかり的な衝動に駆られた気まぐれな判断であったところで、そのことだけで批判することなどできないだろう。ましてや相手の判断が「私の判断と相容れない」ことを根拠に否定することは、むしろ許されないことだろうとすら思っている。

 ただそれでもなお私は、その判断が普遍的な利益であるとか正義もしくは善みたいなものに向いている場合には、それはそれで方向として正しいのではないかと思うことがある。特に人類の未来であるとか、こんな言い方をしてしまうとなんだか抽象的でいい子ぶってるような気のしないでもないのだが、世界平和などにつながるような思いに関するようなことなら方向として是認されるのではないだろうか。

 そうした方向の一つに原子力発電への評価がある。これについてはこれまで何度も書いてきた。書くきっかけになったのは2011.3.11、福島における東京電力の原子力発電所が、あの津波を伴った東北大震災で爆発事故を起こしたことである。だからこうした話題は、既に5年以上にもわたって様々な切り口で書いてきた。意見は日本として原子力による発電そのものを廃止すべきではないかとの思いを中心とするものであった。もっと言うなら、「どうして原子力発電所の建設に政府や世論は反対しないのだろうか」という立場からの意見であった。

 原子力発電に賛成する側の意見は基本的に「経済効率」を中心にするものだと思う。それはつまり「発電所を建設する地域の経済に寄与する」、「安定的に電力を供給できる」、「今のところ利用者の負担が最も安価である」の三点に集約できるような気がしている。

 それに対して反対する側の意見は、「放射能の危険=住民・国民の命に対する危険」に集約できるのではないだろうか。それはそのまま、「どうして安全なのか」、「どうして安全だと言えるのか」の問いかけでもあるだろう。

 私にはこの賛成反対の対立が、例えば相撲のように互いに向き合った堂々の勝負のようには、どうしても思えないのである。まさに「イスカの嘴の食い違い」であり、互いの主張がかみ合っていないように思えてならないのである。「経済」つまり、「その人や企業、更には社会などにとっての利益」と「人の命や危険」とは、対立させて考えてはいけない、むしろ対立したテーマになっていないと思うからである。

 もちろん賛成する側といえども、頭から反対論者を否定したり問答無用とばかりに切り捨てているわけではない。互いの利害得失、受忍限度などを織り交ぜながら説得を図ろうとしている。それでもなお私は、例えば「原発の設置は地域の経済振興に役立つ」みたいな説得は、論点が違いすぎて反対者の視点と食い違っていると思うのである。

 関西電力が所有する大飯意原発3,4号機の運転差し止めを認めた福井地裁の判決が出たのは、今から2年ほど前になる。その判決文にこんな一言があることを思い出した。
 
 「多数の人の生存に関する権利と、電気代の高い低いの問題などを並べて論じること自体、法的には許されないことである。」(福井地裁、2014.5.21判決)

 チェルノブイリの原発事故は1986年4月だから今月で満30年になる。今も荒野にぽつんと残された石棺と呼ばれる原子炉を覆ったコンクリートの残骸が、決して事故が過去のものではないことを示している。私たちはまだ放射能をコントローする術を見つけられないでいるのである。

 放射能のコントロール(例えば中和や相殺や消滅、もしくは完璧な密閉などなど)が果たしてどこまで可能なのか、私の知識ではそれを知ることはできない。もしかしたらそうした研究が現在進行中なのかも知らないし、それとも中和や消滅させるこなど物理法則からしてそもそも不可能なのか、そんなことすら知らない。

 それでもこれだけは言える。コントロールが可能であるとする研究が進行中であるなら、その研究が完成するまで放射能を作り出すような原子炉の作動は中断すべきであり、もしコントロールが理論的に不可能であるのならば、今直ちに廃炉に移行すべきであることである。

 私の原子炉に反対する論拠は簡単である。@現状では放射能のコントロールはできない、A原子炉の作動は放射性物質たる核廃棄物を定常的に作り出している、の二点である。そしてこの二点を合わせると、「私たちは核廃棄物の後始末ができていない」になってしまうからである。

 確かに政府による放射能の安全基準値というものが法律で定められている。だがどこまで安全なのかは誰も知らないのである。学者も政治家も、そして国民もである。放射能を浴びた人が直ちに死亡したりガンを発症するということはないという意味での安全基準値に間違いはないだろう。

 だがそれはたかだか原爆を投下された広島長崎での調査、チェルノブイリ事故から得られた程度の知識でしかない。人が一年間に受ける自然放射能線量は2.4ミリシーベルト程度だと言われている。私たちが自然に生活しているだけでも、宇宙から、大地から、そして食物や大気から放射能を受けている。そうした中で私たちは生活しているのだし、もっと言うならそうした地球環境の中で私たちは進化してきたのだとも言える。だから、自然放射能は所与のものとして考えざるを得ない。

 ところで安全基準値の一つに、放射能業務従事者は5年で100ミリシーベルトまで許容できるとするものがある。1年20ミリシーベルトである。放射能の影響は短期的には死亡、そしてガンなどの発症だが、長期的そして将来的には遺伝的な影響を受ける。その影響はいつまでなのか、どの程度の危険なのかなどなど、その影響を誰も知らない。研究はされているけれど、そして国際機関がとりあえずの安全基準値を示しているけれど、遺伝的影響がどこまで続くのかはまだ誰も知らないのである。

 福島の原発事故で、年間の被曝量が100ミリシーベルトを超える地域が広大に発生した。政府は除染作業(水で流したり、畑や運動場や住宅地の表土を剥ぎ取って別保管するなど)によって、安全な地域になったので居住できると宣言した。だがそれとても日常的に居住する土地は「安全基準値」にまで下がったというだけの話である。毎時100ミリシーベルトを超えるホットスポットが発見されたり、人が日常的には踏み込まない山林などは除染から外れているなど、どこまで安全と言えるかは疑問のままである。

 「安全基準値」がどこまで安全なのかが疑問であるとするなら、果たして「除染完了」の宣言がどこまで安全かは更に疑問である。そしてそして私には、「除染」という言葉そのものが一種のまやかしであり、それは単なる「減染」を別の言葉に言いくるめたにしか過ぎないように思えてならない。

 細胞レベル、染色体レベル、そして遺伝子レベルで考えたとき、放射能による汚染の影響はまだ誰にも「分からない」のである。法律で「安全」と書いたから安全になるものではない。だから私は、こんな二つの方程式を思いつくのである。

 「分らない」=だから、有害と分る(証明できる)まで安全と考えるべきなのだ。

 「分らない」=だから無害(安全)だと分る(証明)まで危険と考えるべきなのだ。

 
将来的に研究や調査を続けていくことが必要なことは分る。だがこの相反する二つの方程式のいずれを私たちは選択すべきなのだろうか。

 東京電力福島第一原発にたまり続けている低濃度の汚染水対策で、最近経産省の作業部会が放射性物質トリチウム(三重水素)の分離は困難とする評価をまとめたとの報道があった(朝日新聞、2016.4.26)。原子炉から流れ出す汚染水から放射能を除去して海に流す(いわゆる除染)システムが、一部にしろ破綻していることが明らかになった。

 「廃棄物の処理」そのものがまだ未確定のまま、どうして原子炉の再稼動が政府主導で進められているのだろうか。人はこれしきのことにも無感覚になっているのだろうか。

 トリチウムの処理に関しては、「深い地層に注入する」、「水で薄めて海に放出」、「蒸発させて大気に放出」、「電気分解して大気に放出」、「セメントなどで固めて埋める」の五案が提示されたという。だが私には、このいずれもがチャンチャラおかしい案のように思えてならない。それとも専門家がこんな案しか考え付かないほど、放射能とは始末に負えないものなのだろうか。そして政府は、そんな中途半端な専門家の意見によって安全基準値を定め、法律化したというのだろうか。


                                     2016.4.29    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 
何度でも言う・原発の安全