携帯電話が普及してきていることもあって、戸外などで独白じみた風景に出くわす機会は珍しくない。もちろんその独白が、会話の片方が聞こえないことによる当方の錯覚に過ぎないことくらい、ちょっと注意するとすぐに分る。

 それはともかく、無意識にひとり言を呟いてしまうような場面は誰にでもあるように思う。歩いていて躓いてしまったときの叫び声であるとか熱湯に触れて「熱い」と発するなどなどのほか、温泉に浸かって「極楽、極楽」と呟いてしまったり、過去の恥ずかしい思い出が不意に脳裏をかすめた時など、無意識にひとり言を漏らしてしまうようなことは、日常それほど珍しくなく存在しているだろう。だがそうした独白が無関係の第三者に、「通常ならば起き得ないであろう状況」で発せられたような場面にぶつかってしまうと、いささかの戸惑いを禁じえなくなる。

 駅は雑多な人が集まる場所だからなのだろうか、独白に出くわす場面が少なからずある。ほとんどが酔っ払いであったり、外見からも精神的な障害を抱えていると見受けられる者の奇声であることが多く、そんなときは、聞こえない振りをしたり無視したりで聞き流してしまう。先日はそうした状況に、駅待合室の長いすという場面で出くわした。それも隣席の女と言う設定で、しかもその呟きが穏やかでなかったこともあって、このエッセイにご登場願うことになった。

 JR琴似駅の改札口近くの待合室には、三人掛けの長いすがいくつか並んでいる。帰宅の電車に乗るために少し早めに駅に着き、改札が始まるまでの十数分を読書で過ごすのがこの頃の私の習慣になっている。待合室の椅子だから客はしょっちゅう入れ替わり、満席状態が続いて座るに困ったということはない。だが、その日は珍しくほとんどのいすが塞がっていて、女性一人のいすだけが一つ私を待っていた。無意識にそこへ腰をかけ、カバンから本を出す。間もなく私がすんなりとその席に座ることができたのは、利用客の多くがその女性との同席を敬遠していたことによるものだと分った。つまり彼女と同じ椅子に座ろうとする者がいなかったからだろうということである。

 始めは隣の女が何を言っているのか分らなかった。言葉として聞き取れなかったという意味ではない。一つの文章としてはっきり伝わってきたにもかかわらず、内容が異様だったせいで理解できなかったのである。その言葉は日常的に全くと言っていいほど聞くことのない言葉であり、私の聞き間違いだと思ったからである。手にしている缶はジュースだろうか、それともビールかチューハイだろうか。呟きの内容からすると、もしかしたら彼女は酔っているのかも知れない。だから多くの乗客が彼女と同席するのを敬遠したのかも知れない。

 歳は60前後くらいだろうか、サンダル履きのやややせぎすの主婦スタイルである。膨らんだビニールの買い物袋を一つ持っているので、買い物帰りの電車待ちなのだろうか。その袋を自分の席の隣に置き、缶を口に間断なく同じ言葉を呟いているのである。隣に座っている私に声をかけているのではない。他の席や通行人の誰かに話しかけているのでもない。だが話しかけでもするように同じ言葉を繰り返しているのである。

 「早く死ね・・・」、言葉はそれだけである。その言葉だけを彼女は溝の壊れたレコードのように休みなく呟いているのである。「早く死ね・・・、早く死ね・・・、早く死ね・・・、・・・・」、言葉は途切れることなく続く。その言葉の持つ異様さへのいささかの興味と、特に危害が加えられるような様子も見られなかったこともあって、私は買い物袋を間に挟んだその女の隣を立とうとはしなかった。もちろん本は開いたものの、活字は少しも目に入ってこない。ただただ下を向いて女の声に耳を傾けるだけであった。

 それだけのことである。私はただうつむいて女の声を聞いていた。間もなく始まるであろう私の乗車する電車の改札案内までの、十数分間の同席である。呟いている言葉はまさに異様であり、考え方によっては危険な内容である。「早く死ね・・・、早く死ね・・・、早く死ね・・・、・・・・」、数回続けてから缶を口にして一息入れ、再び同じ言葉を繰り返す。吐き捨てるような女の声は誰に向けるでもなく止まることを知らない。

 聞いているうちに、そうした女の姿がたまらなく可哀想に思えてきた。彼女はひたすらに「早く死ね・・・」を繰り返している。それはそのまま誰かの死を望む言葉である。一体彼女は誰の死を願っているのだろうか。引きこもったまま口を開こうとすらしない息子か、帰宅したらまた殴られるかも知れないDVの亭主か、それとも疲れ果てるまでの介護をしているのに何の反応もない認知症の義理の親か・・・。少なくともそこにあるのは自分の死ではなかった。「早く死ね」の対象は自分ではない。

 彼女は「殺してやる」と言っているのではない。「死んでしまえ」と吐き捨てているのでもない。ひたすらに他律的な死、早く死んで欲しいことを望んでいるだけである。切ないくらいに望んでいるだけである。口調は乱暴である。内容も穏やかではない。それでもなお私は彼女のひとり言に、どこにも訴えることができない悲しいまでの苛立ち、解決の道筋さえ見当たらない絶望の思いを感じてしまったのである。

 7月、まだ陽光の残る午後6時に近い時刻である。彼女は酔っているのかも知れない。見る限り酔っているふうには見えなかったし、聞く限り呂律が回らないようにも感じられなかった。もちろん泣いているのでもない。それでも私には彼女の呟きが、自らの力ではどうにも解決できない苦しみに対する苛立ちを訴えかけているように思えてならなかった。その苛立ちをどこか他者にぶつけずにはおけないまでの、そんな悲鳴のように感じられてならなかった。

 そうした思いは知人の前では決して発してはいけないとのだと、彼女自身覚悟していたのではないだろうか。駅という彼女を知らない者の集まっている場所だから、日ごろの思いを吐き出してもいいとでも思ったのだろうか。私にはそうとは思えなかった。むしろ、彼女は声に出さずにはいられなかっただけなのではないだろうか。ただそれでもなお、暗闇の個室で吐き出すだけでは解決しないほど、その思いは重かったような気がする。誰かに聞いてもらいたいと思う心と、誰にも聞かれたくないとする重い心、相反する葛藤に彼女の心は悲鳴を上げていたのではないだろうか。

 声にしてはいけない、でも出さずにはいられない、そんな風に私には思えた。その声はまさに「祈り」だとその時私はふと感じた。その呟きは、どうしていいか分からないほどの葛藤に引き裂かれた必死の「祈り」だったのではないだろうか。声が届いたところで、聞いた誰もが彼女を助けることなどしないだろう。私もその一人だし、電車を待つ他の椅子の乗客も、ましてや神がここにいたとしても彼女を助けるために動こうとはしないだろう。無関心、聞こえない振り・・・、徹底的で完璧な無視がこの空間には満ちている。もしかしたらそれは「彼女を無視している」のではないのかも知れない。むしろ「呟く彼女」そのものがここには存在していないことを示しているのかも知れない。その椅子に、そして私の隣に彼女は座ってすらいないのである。駅の構内のどこにも彼女は不存在であり、私も含めて待合室の乗客に彼女は見えてすらいないのである。

 やがて電光掲示板に私の乗る電車の改札開始の表示が点灯し、私は彼女をその場に残したまま席を立った。改札口から駅構内に入って、もう一度彼女を振り返る。呟きはもう私の耳に届かないけれど、同じことを繰り返していることは動作で分る。私と同じ電車に乗るのではないようだ。この駅の乗り場は二階である。乗車ホームまでのエスカレーターに足をかけ、すぐに彼女の姿は私の視界から消えた。

 彼女はまさに見知らぬ他人である。二度と会うことなどないだろうし、仮に再び駅や道ですれ違ったとしても、顔すら覚えていない他人である。私にとって一生における今日だけのしかも数分間だけの一過性の出会いでしかない。このエッセイを書いたことで、こんな女がいたとの記憶くらいは残るだろうけれど、それ以外にはまるで無関係な他人のままである。

 たったそれだけのことである。私の日常の中で、通勤途上で見かけた道草のように、無関係無関心に通過する風景の一つでしかない。二つ目の駅で電車を降りた私は、もうすでに彼女のことを忘れていた。私に聞こえてきた祈りとも思える彼女の呟きは、果たして何だったのだろうか。呪文のような呟きが今でもどこからか聞こえてくるような気がする。「早く死ね・・・、早く死ね・・・、早く死ね・・・、・・・」、繰り返される悲しいその呪文は、女の凄まじい日常が恐らく今でも解決していないだろうことを私に知らせてくる。


                                     2016.8.3    佐々木利夫


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独白する女