「自然の懐に抱かれて・・・」、「母なる大地に囲まれて・・・」、よく聞く言葉である。主人公は緑なす大地、つまり水をたたえた地球であり、方や抱かれ囲まれているのは「人」である。紋切り型と言われればそれまでだが、こんな言葉の使いかたはそれほど違和感なく私たちの気持ちの中に入ってくる。

 このときの自然や大地は「母」と呼称されていることからも分るように、人を生み愛情たっぷりに育てる保護者としてのイメージを持っている。イメージどころではない。「母」なのだから、子をいつくしみ育てることは義務になっているような感覚さえ私たちは抱いている。

 でも本当にそうなのだろうかと、少し引いて考えてみると、こうした思いは私たちの一方的な思い込みでしかないことがすぐに分ってくる。実は、私たちは「母の愛」なんて恩恵は大地たる地球からは、少しも得ていなかったのである。

 私たちがこの地球に生まれて育ってきたことに違いはない。だがそれは決して愛情を注がれ豊かな環境の中で育てられてきたのではない。過酷とも言える環境に、私たちはひたすらに耐えてきたのである。

 ライオンは我が子を千尋の谷底へ突き落とすことで生き残る術を伝えていくとの話は、良くできたシナリオとして聞いたことがある。多くの動物が、自立できるまでに育った我が子を自らの生活圏から追放し、見方によっては育児放棄とも思われるような行動をとることはよく知られている。

 それがいかにも「我が子を自立させるための促進策」みたいに捉えられているのは、私たち人間の抱く幻想ではないだろうか。物事のすべてを擬人化して理解しようとするのは人間の悪い癖である。犬猫もごきぶりも、人間と同じような思考を持っているはずだと考えるのは、人としての悪しき習性もしくは思い上がりであるような気がしている。

 動物が見せる育児放棄とも思えるような行動は自立への支援ではなく、育児放棄そのものなのではないだろうかとこの頃思うようになってきた。動物に限らず植物も含めた生物に共通する理念だと思うのだが、「生きていること」とは「子孫を残すこと」と同義であろう。細胞分裂によるような不死としての生き残り手段を選ばなかった地球上の生物のほとんどは、自らの死を条件に子孫を残すという手段を選択した。種を残すことで一種の不死を得たということでもあろうか。

 生物の歴史は絶滅の歴史でもある。一説によれば、これまでに発生した生命の種の99.9%は絶滅したと言われている。細菌や藻類や昆虫、その他多様な生物がこの世に存在している。恐らく「新種」と呼ばれるような発見もこれから多々あることだろう。

 地球上に生物は溢れているように見えるけれど、それでも地球の歴史を考えるとき、現在生き残っている生物の種はこれまで発生した多様な種の僅か0.1%にしか過ぎないとも言われている。つまり、生物はほとんどと言っていいほど死滅したのであり、残っているのは僅かの例外でしかないということである。

 そうした事実を考えるとき、地球は生物にとって母でも父でもなかった。沸騰する溶岩、全球凍結、そして隕石の衝突などなど、地球は生々流転を繰り返してきた。そうした流転の中で、生命は翻弄され無視され放置されてきた。

 地球に意思があるのかどうか、私には分らない。ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムは、惑星ソラリスを覆いつくすソラリスの海が地球人には理解できない何らかの意思を持つのではないか、そんな不安定さを書いた。それと同じように地球もまた私たちに理解できない命そして意思を持っているのかも知れない。

 だが、仮に地球に何らかの意思を認めたとしても、その意思は私たちが理解できるるような意思ではなかった。少なくとも地球はそこに生存する生物を我が子のように接したことなど、一度もなかった。地球は内部にしろ表層にしろ、そこに存在している生物に徹底的に無関心であった。

 生物もまた、我が子を含めた他の生物に対して無関心なのではなかったろうか。生物に見られる育児放棄のような現象も、種としての命を新たに生むための必然なのではないだろうかと思うときがある。例えばメスが次の子を妊娠し出産するための準備が整ってきたとき、直前に生んだ子供に関わることは次の妊娠なり育児の妨げになるのではないだろうか。

 もちろん、出産直後の育児は大切である。それは母子の愛とか家族の情とか言う意味ではない。そうしなければその子は死んでしまうのであり、それはそのまま種としての存続そのものを否定することにつながってしまうことになる。種の存続を放棄するような行動は、そのまま自らが生きることの否定でもある。

 だとするならその子が自立できるまでになったなら、その子にかかずらうことをやめて次の子を産むことに専念する、それが種の存続にとって不可欠な選択になる。そうした選択こそが我が身の死と引き換えに獲得した種としての不死であり、「生き残ること」だからである。そうしたパターンの繰り返しこそが種の維持にとって必要な行動であり、それが「種として生き残ること」だからである。

 ところが、その程度の育児すら地球はすることはなかった。地球に生命は生まれた。そこにどんな必然があったのか私には分らない。だが生命は地球に頼ることなくひたすらに生き延びてきた。無関心な地球に庇護を求めることなく、ひたすらに自力で生き残ることだけを考えてきた。

 適者生存という考え方がある。変化する地球環境に適した者だけが生き延びてきたとの思いを表すものであろう。だが今生きているほとんどの生物は、生き延びるために努力したのではなかった。適者になるために地球の環境の変化に順応してきたのではなかった。たまたま、生き残る形質を備えていただけに過ぎなかっただけのことでしかない。適者になろうとしてなったのではなく、たまたま適者になってしまっただけのことにしか過ぎないのである。

                                  「母なる大地(2)」へ続きます。


                                     2016.7.1    佐々木利夫


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母なる大地(1)