テレビを見ていて、偏見って一体何なのだろうかと感じてしまった。NHKのEテレでLGBT(Lはレズビアン・女性同性愛者、Gはゲイ・男性同性愛者、Bはバイセクシュアル・両性愛者、Tはトランスジェンダー・体の性と自認する性の不一致)、いわゆる性的少数者を巡る社会の対応についての数人によるトーク番組があった。その中でアナウンサーだったか参加者の一人からだったかは忘れてしまったが、番組の最後の方で「偏見をなくするためにはどうしたらいいか」との意見が投げかけられていた。

 番組を見ていて、ここでは既に「偏見は悪である」ことが、少なくとも参加者には共通の了解事項として暗黙のうちに承認されているように思え、そのことが違和感につながってしまったのである。偏見という語は性的少数者に対する評価のみに使われる特有な言語ではない。発言者の意図は恐らく、社会のあらゆる場面で特定の少数者に対するある種の思いが、その少数者の当たり前の生き方を圧迫していると感じたことにあるのだろう。そしてそうした思いが間違いであり、一般の人に接するのと同じように考えて欲しいという程度の意味だったのだと思う。

 偏見とは言葉の通り「偏った見方・思い」を指し、そうした思いが向けられた対象者の生き方を狭くしていることを総称するものであろう。ただ、その偏ったという基準をどこに求めるのかということが、問題となるのである。「偏った」と誰が決めるのだろうか。それとも「誰が」ではなく、既に「社会的に基準が定められている」というのだろうか。

 私たちはなんとなく偏見に関する社会的な基準の存在を、暗黙のうちに了解しているような気がしている。だが、その基準の意味をを改めて身の裡に反芻してみると、それはまさに「なんとなく」であって、具体的に存在しているわけではないことが分ってくる。「なんとなくでいいではないか」との思いがないではない。でもそれは「偏見する側」の理屈であって、偏見を受ける側にしてみればそんなあやふやな基準で評価されるのではたまったものではない。

 偏見は本来「個人の思い」が基本となるものだろう。ある考えが「偏見」だとされることは、そうした考えがまず特定の個人に存在していることが背景にある。ただ、そうした偏見がその個人の内部に止まっているうちは、それほど問題にはならないだろうと思う。もちろんある偏見を抱いているのが仮に世界でただ一人だったとしても、その一人がその偏見ゆえに銃を持って己の意思を押し通そうとする場合もあるから、一概に「問題とはならない」と決め付けることはできないかもしれない。

 それでも偏見が問題視されるのは、そうした偏見が個人から集団へと伝染してゆくことにあるのではないだろうか。つまり、そうした偏見が多数にまで広がっていることが、例えばこのエッセイの冒頭で取り上げたLGBTに対する発言者の問題提起の背景になっているのではないだろうか。

 そうだとすると、偏見は一個人の問題ではなくなる。それは集団更には社会という範囲まで広がっていくことを意味している。つまり、偏見は多数の思いだということなのである。どこからが多数なのか、それは様々だと思う。ある構成集団の過半数を超えていることが必要だとは必ずしも言えないだろう。でも、過半数を超えた偏見ということもまた、無視できないのではないだろうか。LGBTに関して問題提起したEテレの参加者の意見も、むしろそのことにあったのではないだろうか。つまり構成員の数パーセントが偏見を抱いているというのではなく、社会の圧倒的多数もしくは少なくとも半分以上の人がそう考えている、との思いが背景にあるのではないだろうか。

 「社会のほとんどがLGBTに対して偏見を持っている」と参加者が感じ、だから「その偏見をなくするためにどうしたらいいか」が問題提起になったのではないだろうか。もちろん「社会のほとんど」と言ってところで社会の100パーセントが偏見を抱いていると言う意味ではない。それでも発言者の意見は、少なくとも過半数を超える人たちがLGBTに偏見を抱いてると感じたことが背景になっているように思える。

 さてここまでの考えが正しいとするなら、「偏見を抱いている人は多数である」という事実を認めなければならない。つまり偏見は少数ではなく多数なのである。偏見をなくそうとか偏見は正義に反するなどという意見は、多数者が抱いている意見は必ずしも正義ばかりではなく、時に「偏見である」場合もあるのだと私たちに訴えているのである。

 私たちは様々な意見をまとめ上げることで社会を運営しようとしてきた。何が正しい方法なのか、それを模索する過程が人類の歴史ででもあっただろう。そうした中で私たちは一つの指針を見つけ出すことができた。それは「多数決」である。もちろん多数決には少数意見にも耳を傾けるという前提が要求されてはいるが、少なくとも決まった多数意見には少数意見者も従うことで、私たちは現在の社会を機能させてきた。

 多数決で決まったことは未来永劫維持されなければならない、変えてはならないということではない。人が変わり、時代が変わり、社会の仕組みが変わっていく中で、多数意見といえども修正され変わっていったことを否定するつもりはない。それでも背景には、「多数は常に正しい」という信仰みたいな思いがあったのではないだろうか。

 こうした疑問は当然に、「それでは少数者の思いは常に間違いなのか」という対立する疑問を生む。恐らくそうした対立は、偏見という考え方に対する人々の捕らえ方の違いによるように思う。

 目の見えない少数の人たちがいる。その人たちを別の多数が「かわいそう」だと思う。そのとき、その「かわいそう」は目の見えている多数人たちの思いである。もし仮に、目の見えない人たちがこぞって「かわいそうなんて思うのはよしてくれ、私たちは目が見えている人たちと同じ人間なのだ」と主張したとしたら、その「かわいそう」との思いは偏見になってしまうのだろうか。そしてそのとき、「かわいそう」と思われることに抵抗感がなく、むしろそうした善意を喜んで受け入れたいと願う更に少数の目の見えない人がいたとしたなら、その人たちは偏見から除外されたことになるのだろうか。


                                  「偏見の意味するもの(2)」へ続きます。


                                     2016.11.25    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 
偏見の意味するもの(1)