今の社会、世界中がどことなく混乱しているような気がしてならない。国と国とが領土や経済を巡って対立し、国民は国民で民族や宗教や心情や資源などで対立している。国政選挙は移民・難民の受け入れが争点となり、貧富の差が人々の不満を増幅させている。もちろんこうした現象は、地球の歴史上人類がこの世に現れたときから当たり前のように繰り返されてきたことなのかもしれない。だからこうした風潮を「昔からあった現象さ」とか「よくあることだ」、「それが人間なのさ」と言われてしまえばそれまでのことである。

 だが、最近の社会のこうした動きは、「よくあることだ」という一言では説明しきれないほどにも深刻化してきているように思えてならない。人は時とともに学習し、進化していく。そのとき私たちは進化という言葉を、常にプラスの方向への変化だと考えてしまいがちである。昨日よりも今日はより理想や正義に近づいているのだと無検証に承認し、変化そのものが進化であると錯覚しがちである。あたかもそうした方向への変化が、予め神が約束したお告げでもあるかのように・・・。

 しかしそうでないことは、私たちの辿ってきた歴史があからさまに証明している。少なくとも他者との対立については、類人猿もどきの時代から人は少しも変わっていないと言ってもいいくらいである。

 愛、自由、平等、正義、独立、権利、平穏、平和・・・、そして思いやり、いたわり、優しさやぬくもりなどなど、人は言葉や哲学では様々な生き方を発明してきた。それでも数万年を経て、それらは人類に少しも定着してこなかったような気がする。言葉があり、それを声高に唱える人がどんなにいたところで、そうした思いはそれぞれの言葉の中で堂々巡りしているだけのような気がする。

 最近、NHKスペシャルで、マネーワールドというタイトルの特集番組を見た。その中にこんなナレーションがあって、いささか衝撃を受けた。なんと「世界のトップ62人の保有する総資産が、下位層36億人の資産総額に等しい」というのである。

 世界の総人口は約73億人だとされている(世界人口白書、2016年)。とするなら、ナレーションに言う下位層36億人という数字は、この約半分を示していることになる。これはつまり世界人口半分の持つ資産総額が、トップ62人の資産総額に等しいというのである。

 私たちは無意識に「働かざるもの食うべからず」に代表されるような俚諺を信じてきた。それは労働に対する一種の信仰だったかもしれない。それでもその信仰は働けない人にまで労働を強制することではなく、それぞれがそれぞれの能力に応じて働くべきだという、至極当たり前の発想を基本にするものであった。そして比較的能力の高い人や一生懸命に働く人が、能力がやや不足している人や働きの少ない人よりも多少なりとも多く報われることを承認してきた。それがたとえ、きちんとした因果として直接的に結びつかなかったとしても、報酬や地位や時には名声の差が「努力相応の範囲に吸収される」ことを承認してきたのである。

 もちろん報われることのない努力が存在すること自体を否定はしない。得られた結果が必ずしも傾けた努力にふさわしい評価に結びつかない場合があることだって、人はそれぞれ分っていたはずである。

 それでも人は「努力が報われる」ことを信じようとしてきた。それは、報われ方に多少の幅があったとしても、その差は自身の中で吸収できる範囲内にあったからである。ある人のある努力が10の評価を受け、同じような私の努力が仮に7の評価しか受けなかったとしても、その評価の違いを理不尽と感ずることなく許容できたからである。

 だが、現代社会が示す富の偏りは、そうした許容の範囲を超えてしまったのかもしれない。どこまでが許され、どこから限度を超えたと感ずるか、その境界を求めることはとても難しいことだろう。それでも、この62人と36億人の対比は、乗り越えられないほどの残酷さを事実として人々に示しているのではないだろうか。その断絶は羨望の範囲を超え、いずれは私もそうした高みに上りたいという願望の範囲を超えて、到達不能な域にまで達している。

 そしてそうした思いを、氾濫する情報が更なる増幅をする。そこまでの断絶を、人は果たして能力や努力の違いとして納得できるだろうか。芸能界やスポーツ選手などの余りにも高額な報酬、株や投資信託などの金融取り引きや不動産売買などにおける巨額な資金の流れ、そして更には賄賂や詐欺や脱税などを巡る巨大な不正や資金の動きなどなど、富の偏りに対する情報は「努力すれば報われる」と人々が抱いていたこれまでの思いをあっさりと打ち砕いてしまった。

 そうした状況の中で、人は他者を引き引きずり下ろすことに快感を覚えるようになってしまったのだろうか。「腹減った」の感覚がその程度を超えて、「ひもじさ」や「飢え」にまで達したとき、人は満腹そして飽食の状態にある他者に対して、果たして何を感じてしまうのだろうか。

 現代の貧困は、既に「金がない」とか「腹減った」程度の範囲を超えてしまっている。貧困は富裕と感じる階層や己を貧困へと貶めた(に違いないと感ずる)政治や社会への憎しみへと膨れ上がり、貧困層の抱く未来や希望そのものを打ち砕こうとしている。

 身勝手な思いのことを、私たちは自己中心・ジコチュウと呼び、時に批判し卑下する。だが貧富の差がとめどなく広がり、修復不可能なまでに拡大してしまった現代は、自らの未来に希望の持てない人たちを大量に生むことになった。そんな下位層の人たちの思いに向かって、「ジコチュウ」と投げかける声のなんと力ないことか。

 貧困そのものこそ諸悪の根源だ、貧困さえ解決すれば直ちに世界は平和になるなどと断ずることは、早計に過ぎるだろうし、間違いかもしれない。しかし貧困が単独で暴力や不正の原因になっている例を、私たちは嫌というほど知っている。金がすべてを解決するとは思わないけれど、現代の世界中の混乱の多くは貧困にその原因を求めることができるような気がしている。しかもそれは絶対値としての貧困が単独で原因になっているのではなく、貧困と富裕との余りにも甚だしい懸隔が引き起こす貧困の意識にあるように私には思えてならない。

 今後も貧富の格差は益々拡大していくことだろう。そのことで貧困意識は更に増幅し、結果として世界は更なる混乱へと向かってゆくのだろうか。そして貧困の行く末を考えることなく、人は貧困そのものが見えないとの振りをし続け、貧困者を見捨て続けていくのだろうか。


                                     2016.11.18    佐々木利夫


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貧困の行く末