きちんとメモして聞いていなかったこともあって、出どころが企業なのか大学の研究成果なのか、それとも国とか国際機関などの発表によるものなのか、そこんところを示せないのが残念である。テレビを見ているときに海外ニュースが入り、イギリスBBCによる「蚊への遺伝子操作」(2016.3.15)の話しが耳に入ってきて、そのことがどこか気になってしまったのである。

 遺伝子操作そのものについての話題はそれほど珍しくない。F1(雑種第一代)と呼ばれる作物の種子は遺伝子操作そのものを示している。その種からは次の世代の親となる新たな種が採れないにもかかわらず、病害虫や気候変動に強く収量も品質もいいなどの特性から、需要が世界を席巻しつつある。恐らく私たちが毎日のように口に入れているパンや大豆製品などの多くが、それらから作られたものになっていることだろう。

 また遺伝子操作とは少し違うが、血液を検査することで妊娠している胎児やその人が持っている病気への特性などを遺伝子レベルで解析し、胎児の遺伝的な特性はもとより罹っている病気や将来罹る可能性のある病気などの治療や予防に役立てたりすることもできるようになってきた。

 このように遺伝子問題は、既に私たちの日常に入り込んでしまっているといってもいい。だからそれを今さら話題にすることなど、時を失した話題になっているのかも知れない。それでもそれらを承知の上でなおこのニュースには、やっぱりどこか引っかかるものを感じてしまったのである。

 それは最近流行が危惧されているジカ熱対策に関連するものであった。ジカ熱はウイルス性の病原体による疾病であるが感染しても約8割は症状が出ないとされ、罹った場合でも軽い風邪に似た症状で済むことが多いらしい。だから私たちにそれほど深刻な影響を与えるものではないと言われており、多少の熱や咳くらいの症状だけで済むなら、それほど心配する必要はなさそうである。

 ところがこの病気、まだきちんと科学的に立証されたわけではないのだが、妊娠中の女性が感染すると胎児が小頭症で生まれてくる可能性が高いらしいのである。なんらかの原因で、胎児の頭蓋の成長が妊娠の中途で止まってしまうようなのである。

 小頭症の胎児は先天的に頭が小さく、脳に障害が出ることがあると言われている。WHO(世界保健機関)の事務局長が今月に入って「ジカウイルスの感染と、胎児の奇形や神経障害の関連を示す証拠は増えている」と発表したことから世界的に話題になった。感染は中南米を中心に世界へと拡大しており、日本でも今年に入ってブラジルから帰国した二人の感染が確認されている。ブラジルは今年リオオリンピックが開催され世界から人が集まることもあって、一層世界の関心を集めている。

 感染のルートは性行為や輸血も上げられているが、一番多いと思われているのが感染者の血液を吸った蚊が別の人を刺すことで広がっていくケースである。この感染拡大を防止する策の一つとしてとり上げられたのが蚊への遺伝子操作という手法であった。具体的な話はこうである。

 遺伝子操作を施した蚊を大量に自然界へとばらまき、繁殖させる。その操作された蚊は生殖能力を持っているが、生まれた子どもは、成虫になる前に死ぬ。

 これだけのことである。つまり幼虫が成虫となる前に死ぬことから、遺伝子操作された蚊の子孫はそこで途絶えてしまうということである。こうした方法で将来的にジカ熱のウイルスを媒介する蚊を絶滅させようとする作戦である。
 たかが蚊である。国際的に獣や鳥などの絶滅危惧種を指定して、その保護を図ろうとする運動があるけれど、蚊を保護することなど問題外である。なぜなら、蚊は害虫だからである。人間に何らの利益も与えることのない、純粋な害虫だからである。いてもいなくても関係がないし、この場合はウイルスの伝染という害をなすだけだからである。

 私はこうした「種を絶滅させてしまうことへの宣言」にどこか人間の驕りを感じてしまったのである。とこまで完璧かは分らないけれど、世界からコレラが消えたとかペストは絶滅したなどの話を聞くことがある。それらは恐らく生物としてのコレラ菌やペスト菌の地球上からの消滅を意味しているのだろう。だとすれば、その消滅は種としての生物の消滅であり、その生物の命の完膚なきまでの消滅である。しかもその消滅は人為によるものであることは論を待たない。

 種の消滅は世界のあらゆるところで見ることのできる現象である。それは自然淘汰の場合もあるだろうし、環境汚染や消毒などによる人類の利害が結びついている場合もあるだろう。動物や植物、そして菌類や細菌などに至るまで、地球上には様々な命が存在している。それらの命を「一律の命」として考えることに抵抗感がないわけではない。

 生物は己以外の生物を摂取することでその命を維持し生き延びてきた。中には金属や気体など、無機質を糧にしている生物がないとは言えないだろうし、もしかしたら私たちが普通に考えている生物も、そうした無機質を食料として成長してきたものの進化の果てなのかも知れない。それでも、多くの生物の命は他者の命の上に成立している現実を否定することはできない。

 蚊の命を大切にしようなどと、必ずしも思っているわけではない。私たちは当たり前に手を洗いうがいをすることで多くの病原体から日常的にその身を守っている。体内では胃酸や多くの免疫機能などが、外部から進入した風邪にしろ下痢にしろ、多くの異物を毎日のように無害なものへと変えている。そうした行為なり現象を、いちいち「命の抹殺であり、殺戮だ」などと考えるべきだとも思わない。

 それでも「蚊の幼虫であるぼうふらを退治するために水溜りをなくそうとする」ことや「殺虫剤を散布する」ことと、この「遺伝子操作によって子孫を残せない蚊を作り出す」こととはどこか根本的に違うような気がするのである。ぼうふら退治だって命の操作であることに違いはないとは思う。「殺虫剤で蚊を殺す」ことと例えば「不妊の蚊を作り出す」こととは、結果として同じ効果なり現象を生んでいるのかも知れない。

 それでも私は、そこに「命への操作に対する人間の介入」という違いを見てしまう。そうした手法に「命をコントロールする」という人間の驕りが見えるような気がしてならないのである。

 私の思いは、遺伝子というものに何か神性まがいの現象を見ているのかも知れない。命の中に、人間が触れてはならない神の存在みたいな特別な思いを込めようとしているのかも知れない。もしかしたらそんな思いは、生物の発生や進化に対する単なる思い込みの強さに過ぎないのかも知れない。

 人の思いなどとは無関係に宇宙は存在し続けていくことだろう。まったく異なった意識や形態を持つ生物(それを仮に生物と呼ぶとして)だって宇宙には数多く存在するかも知れない。また、地球だけが宇宙でたった一つ例外的に生物という形態を生み出した希少な星だという可能性だってある。

 ただ仮に命が地球だけの例外的な形態だとしても、「命」が「命」を操作するという発想は、私にはどこか間違っているような気がしてならない。そしてそうした発想が現実として私たちの身の回りに広がっていくこと、そしてそのことに私たちが鈍感になって当たり前のこととして考えてしまうことに、どこか末恐ろしさを感じてしまうのである。


                                     2016.3.18    佐々木利夫


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死への遺伝子操作