ある現象なり出来事に対して判断を下すのは、基本的に「個としての私」である。選挙などのように多数の意見で一つのことを決定するケースがないではないけれど、それとても「個である私」の意見の集約が基本にあることを否定はできない。

 デカルトが言ったとされる「我思う、故に我あり」にまで思いを馳せることもないとは思うけれど、「私が思う」ことが個々人の生活なり世の中なりを決定付けていることに違いはない。だから「・・・と私は思う」、「・・・だと私は考える」などがすべての基本にあるのだろうと私は思い、そのことを否定しようとは思わない。

 ただ「・・・と私は考える」との意見が、権威を持っている人の口から発せられたり、もしくは公共的な立場にある者からの意見として発せられてしまうと、その意見が誤解されてしまったり独走してしまうようなことが多いのではないだろうか。それはつまりその思いが、「私個人の意見であって参考にしてください」程度のものであったとしても、時に強制もしくは事実上の強制力を伴う発言になってしまうことがある。

 かなり昔の新聞記事なのだが、朝日新聞の北海道版に定期的に掲載されている記事に「けんこう処方箋」という特集がある。身近に起きる病気や怪我に、身近な人がどう対処したらいいかなどをアドバイスする内容である。あるとき、こんな記事が載っていた。

 「『子どもの高熱 慌てず解熱剤を』 こどもが急に高熱を出し、ぐったりすることがある。特に、夜間となると保護者は不安に感じるだろう。・・・まずは、子どもに解熱剤を使ってみよう。・・・解熱剤を使うべきでないという考え方は一部にある。だからといって、子どもを高熱で苦しめるのは得策ではないと私は考えている。乳幼児の場合は、熱が38.5度を超えて元気がなければ使おう。・・・高熱に伴い、けいれんを起こすこともある(が)・・・5分以内にけいれんが治まれば、多くは良性のものであり後遺症を残すことはない。・・・ただ高熱を伴ったウィルスが原因でなる脳炎や脳症、細菌による髄膜炎などの場合は気をつけなければならない。長時間けいれんや頭痛が続き、治まっても意識がはっきりしない場合はその危険性がある。」(2016.2.10、朝日新聞、KKR札幌医療センター・小児センター長)

 言ってることが間違いだと指摘したいのではない。ただこの医者はこの記事で、果たして誰に対して何を伝えたいのかがまるで見えてこないことに、どうしても私は気になったのである。そして更に、その伝えたいことを、「・・・と私は考えている」という言葉を添えることで、「私がこの記事を書きました」といういわゆる文責を放棄しているように思えてならなかったのである。

 この記事は誰に向けたものだろうか。専門的な論文発表の場ではなく、専門誌での意見でもない。普通の新聞記事なのだから一般的な購読者へ向けたものであろう。恐らく「朝日新聞を購入してくれた人」だけを対象としたものでもないだろう。内容からするなら、医療の専門的な知識などを特に持っていない一般市民向けであり、もっと言うなら乳幼児を持つ普通のお父さん、お母さんに向けた「心配ごと相談」に類する記事だと理解してもいいだろう。

 「夜中に子どもが熱を出した。・・・どうしよう・・・」、そんな不安に駆られている若いお母さん・・・。悩むお母さんに対して、この記事を寄せた医者は一体何を告げようとしているのだろうか。

 記事を読む限り、それは「赤ちゃんの急な発熱」への対処である。その意味でこの医者は解熱剤、つまり熱さましの薬を与えよと言っているのだから意味はよく分かる。また体温38.5度を超えたらという、投薬すべきかどうかの具体的基準もきちんと示している。だからそのことに特に問題はないと言えるかも知れない。

 だがその医者が示した投薬すべしとした根拠は、「子どもを高熱で苦しめるのは得策でない」と言うことだけなのである。高熱が発生原因たる病気の治療にどんな効果を持つのか、また高熱が子どもの体にどんな影響を与えるのかなどの説明は一切なく、単に「得策でない」ことだけを根拠にしているのである。

 しかも、この医者は「解熱剤を使うべきでないという考え方は一部にある」とも言っているのである。だが果たしてその「一部」とは、何を意味しているのだろうか。単なる民間信仰みたいな俗説を指しているのか、それとも著者がその発言を信じていない「他の医者」のことなのだろうか。そして「一部」とは、無視もしくは切り捨てても構わないほどの少数という意味なのだろうか。私の知る限り後者であり、しかも無視できるほどの少数ではないような気がしている。病気になって発熱するのは、熱に弱い病原菌から体自らが守ろうとする自衛手段であるとする意見を、信頼できる立場の人から聞いたことがあるからである。そしてその意見によれば、熱を下げるのは逆に病気を進行させることになるそうである。

 私にはどちらが正しいのかきちんと分っているわけではない。それでも例えば「高熱によって○○のような後遺症が出る恐れがあるので、体温が38.5度を超えたら解熱剤を使う必要がある」との説明ならば分らないではない。しかし、その基準が「苦しめるのは得策でない」だけだとするなら、その意見は医者としての判断になっていないと思うのである。

 さらにこの医者は、「・・・5分以内にけいれんが治まれば、多くは良性のものであり後遺症を残すことはない」とも述べる。医者にしてみれば「発熱する幼児患者」は統計的な集団であるかも知れない。5分以内にけいれんが治まって何事もなかったような症例を数多く見ているのかも知れない。

 だが、悩んでいる母親にしてみれば、発熱でけいれんを起こしているのは「目の前のたった一人の我が子」なのである。高熱で体を震わせている意識のない我が子である。そんな子を目の前にして、母親はけいれんが5分以内に治まるのか、それとも5分を超えて続くのかをじっと待っていろとこの医者は言うのだろうか。

 そんな母親に「5分以内に治まるのなら多くは良性のものであり、後遺症を残すことはない」の記事が、どれほどの説得力を持っているとこの医者は思っているのだろうか。

 これだけではない。医者はこんなことも言っている。「(ある種の)ウィルスや細菌による脳症や脳炎、髄膜炎などの場合は気をつける必要がある(ので)、医療機関をすぐ受診して欲しい」。これもまた正しいのだろう。でも私にはこの医者は結局、夜中に熱が出ても病院に来るな、通常の診療時間に受診するようにしろ、と言っているだけにしか思えないのである。

 そして翌日の診療時間、ぐったりした我が子を抱えて訪れた幼い患者の母親に向かって話しているこの医者の言葉が、今から分るような気がする。「もっと早く連れてくればこんなことにはならなかったのに・・・」、「これはお母さん、あなたの責任ですよ・・・」。

 医者はこの記事の中で、「心配する必要のない程度の症状」から「重篤な症状」までを満遍なく並べ立て、それらの症状を「多くは・・・」とか、「・・・と私は思う」、そして「場合によっては」などという文言で結びつけているのである。それはまるで、診断の責任を新聞の読者である医療知識のまるでない母親の自己責任に転嫁しているだけのように思える。

 つまりこの医者からは、「患者を診断することだけが私の責務」という感情が伝わってくるだけで、「おろおろしているだろう母親」に対する共感というものがまるで感じられないのである。この医者にとって患者はあくまでも治療対象としての統計的他者であり、その母親でしかないのである。

 私は母親に責任のすべてを転嫁するのではなく、例えば地域の「救急相談センター」であるとか、場合によっては「民間の救急コールセンター」など、症状と対応などを相談できる窓口の紹介くらいはする必要があったのではないかと思うのである。この医者はこの記事で母親の決断にすべてを任せるだけで決して自分は関与しない位置に立とうとしている。だからどんな事態が起きても「私に責任があった」と思うことなど決してないだろう。なにしろこの記事は、想定されるであろう問題点はとりあえず網羅してあり、それをどう感知しどんな選択するかは読者の責任であって医者とは無関係な作りになっているからである。

 あらゆる危険性を網羅し、逃げ道を作り、自らを傍観者として責任のない高みに置く、そんな臭いがこの記事からは漂ってくるのである。そして現実はその通りに進んでいくことだろう。そして仮にこの新聞記事によって不測の事態が起きたところで、医者が責任を問われることなどないだろう。だからこそこの新聞記事からは、無責任さが一層強く臭ってくるように思えるのである。

 「思うこと」はむしろ正しい。だが、その思いが他者を強要したり判断を迷わすような懸念がある場合には、慎重な配慮が必要になる。単に「・・・と私は思う」と添えるだけでは足りず、発信への細心な配慮が必要になるのではないだろうか。他者に同意を求める場合や、その思いが他者の思いを誘導するような場合、つまりある種の権威を背景にした発信の場合には更なる必要があるように思う。それが「主張する側の責任」だと思うからである。


                                     2016.5.12    佐々木利夫


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・・・と私は考える