今の自分ではない別の自分を探し求める、こうした思いはいつの時代の誰にでも存在するのかも知れない。私にも同じようにあったと思う。そしてそこに描かれている自分は、常に「今の自分よりも素晴らしい存在」であり、それが人類に貢献するほど崇高なものかどうかは別にしても、少なくとも今よりは輝いてるだろうことに違いはない。だがその輝いている存在が実体的に何なのかは、どうしても思いつかない。それでも人はそんな自分を見つけたいと願い夢想する。さすればさまようことは、人が人であることの宿命なのかも知れない。

 そして見つかったと思う人もいれば、見つからないと嘆く人もいるだろう。だが少なくとも「自分探し」という言葉や過程を美化しようとする心は、いつの時代も変わらなく私たちの中に残っているようだ。見つかったと思う人にも見つからなかったと嘆いている人にも、・・・である。

 でも、私には「自分探し」を見つけたと思う人の気持ちが、どこか理解できないでいる。「見つかった」→「これでいいんだ」→「これこそが私の人生だ」→「これ以外に自分の人生はなかったのだ」とするような理解が、どこか納得できないでいるのである。

 それはまさに「人生に満足はない」とする過程なのかも知れない。私には「見つかった」とする思い、そしてそれを承認し満足する過程が、どこか間違っているように思えるのである。その満足した人にとって、「満足した今」以外の自分を想像することはできないのだろうか。「満足した」そのことが、人生の目標の終点になってしまっていいのだろうか。

 私は「自分探し」を否定したいのではない。ただ私は「自分探し」というものが、終点のない「一種の過程」を示しているのではないかと思っているからである。自分探しとは見つけたり見つかったりするものではなく、「探し続ける過程」そのものを意味しているのではないかと思うのである。たとえて言うなら、一種の「見果てぬ思い」そのものが、自分探しなのではないかとさえ思っているのである。だからそれは、「見つからないもの」の総称なのではないだろうか・・・。

 「自分探し」を語る人たちの多くの思いの中には、「やがて見つかるものだ」との信念がある。ただ私にはその見つかるものは自分で見つけることよりも、「誰かが与えてくれる」ことを期待する心のように思えてならない。自分探しを呪文のように唱える人の思いの中味は、慈悲深い神様がある日突然、あたかも啓示のように「私にふさわしい何か」を与えてくれるのだと信じているだけのように思える。

 もちろん神は「実現しない夢の後始末」をする担当としての役割を与えられているとも言える。悪いことの結果責任のすべてを引き受けるのが「神」なのかも知れない。自分探しの対象や、商売繁盛、受験合格や交通安全などなど、実現しない願い報われない思いは世の中に溢れるほど多い。それらはすべて神様のせいだと引き受けるのも「神」の役割なのかも知れない。

 そんな人に、自分の夢は「自分で見つけるものなのだ」と諭すことはたやすい。けれども多くの人は自分探しの夢を、天啓を望むように「見果てぬ何か」に対する依存に託そうとしている。

 私の思う自分探しとは、見えないものを探すのではなく、目の前にある現実の中から探し出すものなのではないかと思っているのである。夢想する世界に自分を置くなら、そこにはノーベル賞も芥川賞も末は博士か大臣かの思いまで限りなく存在する。そうした思いの実現を「自分探し」の目標とするなら、恐らく答えは出ないだろう。それは「探す」のではなく、まさに単なる夢想であり天から降ってくる僥倖を口を開けて舞っているだけになってしまうからである。

 世の中には、まさに僥倖と思えるような成功譚がないことはない。棚から黄金のぼた餅が降ってくることだってあるだろう。だが多くのぼた餅は、努力の結果として見つけるものかもしくは作り上げるものだと思う。

 見えないものを望むのは、もしかしたら「ないものねだり」なのかも知れない。ないものはいくら探しても見つかることはない。その見つからないものを、いくら必死に「自分探し」の対象に加えても、見つかるはずなどないだろう。

 私には多くの人が自分探しの対象を、「ゼロからの発見」に置いているように思えてならない。ゼロの中にも、もしかしたら微量の成功が含まれている可能性がないとは言えないだろう。その微量にすがるのも、自分探しとしての意味を持っているのかも知れない。それでも、ゼロは多くの場合ゼロのままなのではないかと思う。そこから「自分を探し出す」ことなど、とても難しいような気がする。

 私は自分探しとは、己の目の前にある可能性への挑戦だと思っている。挑戦し努力の目標として存在している対象を見つけること、その道こそが「自分探し」の最初の過程なのだと思っている。

 ある職業についたとして、その職業を自分の性格に合わないとして他の職業を探すのもいいだろう。世界を放浪して「何かないか」と探すのもいいだろう。私ならその職業で自分を生かせる手段を考えるだろう。会社なら、経理もあれば総務、営業、製造、商品開発などなど多様な道がある。総務畑の仕事を命ぜられて、その仕事に働く気を削がれる場合もあるだろう。それでも総務の中で例えば人事管理のエキスパートになるよう努力することや給料計算の達人を目指すことは可能である。総務を超えて商品開発への意欲を会社に認めされることは可能である。

 そうした努力をしないまま、与えられた仕事に生きがいを見つけられないからとして転職をくり返したり、フリーターやアルバイターへと道を変えてしまうのは、私には「自分探し」に名を借りた怠慢ではないかと思うのである。目の前にある仕事はまさに抽象的ながら天職になっているのではないだろうか。その天職に含まれている多数の選択肢に向けて少し努力する、そのことが自分探しの出発点になるのではないだろうかと思う。

 努力しないまま、本当の自分が見つからないと称して他者に責任を押し付けたところで、それは努力しなかったことの当然の結果でしかないと思っているのである。今ある自分がすでに、「自分探しを見つけた自分」であり、「自分探しの出発点を見つけた自分」になっているのだと、私はどこかで確信しているのである。


                                     2016.1.1    佐々木利夫


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