今月14日夜に、九州熊本で震度7(マグニチュード6.5)のすさまじい地震があった。その日のニュースは夜を徹してこのニュースで持ちきりであり、翌朝は死者4人との報道がされていた。地震は通常、この最初の震度よりも小さな余震を続けながら次第に収束へと向かうのが常識である。

 ところが今回は違っていた。当初の地震から丸一日と数時間を経た16日未明、当初の震源のすぐ近くで、震度は6強と僅かに下回ったもののマグニチュード7.3にも及ぶ地震が発生した(4.20、震度7に改変した)。気象庁の報告ではこれが本震で14日のは前震であるとの見解である。マグニチュードとは地震のエネルギーを表す指数関数による表示であり、震度が1増えると地震のエネルギーは32倍になると言われている。こまかい計算式は知らないけれど、今回の地震における前者の6.3と後者の7.3の規模の違いは10数倍になるそうである。

 この両者に関連する21日朝までに発生した震度1以上の地震の累計で739回、震度4以上で90回を数え、二次災害も伴って死者も48人と報道されている。地元も政府もこの対策に追われており、警察、自衛隊、海上保安庁の職員などが部落を決めて住宅などを一軒一軒回り、住民の安否確認を行っている。

 その時の掛け声がタイトルに掲げた「誰かいませんか?」であった。全壊、半壊、見かけ上は損害の見受けられない建物などを戸別に回りながら、担当者が声かけ確認をしている様子がニュースで流れた。そのことに違和感を覚えたのではない。ただこの掛け声に続けて、「居たら返事してください」と発した声に、なんだか引っかかるものを感じてしまったのである。

 避難中で人の住んでいない住宅も多いだろうけれど、そうした人たちと目の前にある建物とを結びつける情報はないのだろうから、一戸一戸声をかけながら確認していくしかないだろう。そのことはよく分かる。だから「誰かいませんか」との呼びかけは理解できる。それでも、「居たら返事してください」の声かけはどうだろうか。果たしてこの声かけは、いったい何を期待しているのだろうか。

 もちろん言葉通り、中に人がいた場合のその人からの返事である。「いるよー」でも「おー」でも「助けてー」でも何でもいい、呼びかけに対して自分がこの建物の中に存在していることの返事である。この返事に対して問いかけた者は、救助が必要かどうか、避難の必要性などを再度尋ねることになるのだろう。ならぱ、そうした問いかけをしたところで、それはそれでいいではないかと思うかも知れない。

 だが考えても欲しい。この「いたら返事してください」の声かけは、返事がなければこの家に人は居ないことを確認したことにつながってしまうのである。さてこうした時、「返事がない」ケースとしてはいくつも考えられ、それらのケースと問いかけとが矛盾する場合が多いのではないかと思ったのである。私には「返事がない」ケースとして、次の7つがあるような気がしているのである。

 @ 不在(つまり全戸が避難しているか、最初から空き家である)
 A 居るけれど死んでいる
 B 居るけれど意識不明もしくは衰弱していて返事ができない
 C 居るけれど何らかの事情で声かけが聞こえない
 D 声かけは聞こえたけれど、放って置いて欲しいので返事をしない
 E 声かけは聞こえたけれど、「いませんか」だけでは質問になっていないので返事しない
 F 被害はなく普通に生活している


 
さて、こうした中で「返事がない」ことでその家屋を不在としてパスしてしまうことが許されるのはどんな場合だろうか。私には@のケースだけであり、残りはすべて何らかの対応が必要だと思うのである。Dの場合だって、本人の自主性なり意思なりを尊重することは必要だと思うけれど、人が居るにもかかわらず「不在」としてパスしてしまうことは許されないのではないだろうか。またEは天邪鬼だから「勝手にしろ」と無視してしまうことは声かけの趣旨に沿わないだろう。D、E、Fとも、その建物に残したままにしておくかどうかは別としても、少なくとも「人が居る」、「避難を呼びかけた」、「本人は避難を拒否した」ことくらいまでは対応しておくべきだろう。

 Aだって、死者と不在とはまるで意味が違う。死者としてその建物に存在していた事実はきちんと確認すべきだろうし、それにも増して死の判定は医師がすべきだろうからである。B、Cに至っては問題外である。こうした人を探し出すのがこの戸別訪問の目的だろうからである。

 Fはどうだろうか。今回の目的は全戸確認である。何の被害も受けず建物も無事で、食料の備蓄も完璧な人たちもいるだろう。それでもそのことの確認は必要であり、少なくとも無視したりパスしてしまうことは許されないと思うのである。

 こう書いてきて、多くの人は「誰かいませんか」だけで返事をしてくれるのではないかと思ったのである。強いてDやFの人の中に仮に返事をしない(したくない)へそ曲がりがいたとしても、「返事がない」=「誰もいない」としてその建物を通過してしまうのは誤りだと思ったのである。

 そうすると「返事がない」=「無人」の判定を下していいのは@の場合だけに限られることになる。「いたら返事してください」と「返事がない」こととの間には、何の相関もないのである。あるとすればDのへそ曲がりに対処する場合だけである。

 だから私は「いたら返事してください」の声かけは意味がないどころか、「返事がない」ことを「無人」に結び付けてしまうとても危険な言葉だと思ったのである。他人の住んでいる家屋である。声かけをしている人たちに、非常事態だかといってどこまで他人の住居に踏み込んだり瓦礫を取り除いたりすることが許されているのかは分らない。他人の家なのだから勝手にづかづか踏み込んでいっても構わないとは思わないけれど、それでも「いたら返事してください」は「返事がなければ不在とみなして無視する」との思いを合法化するような、そんな危険性が含まれている行為のように思えてならないのである。

 子供の頃、「居なかったら居ないと返事しろ」とのジョークを、どこか面白く感じた記憶がある。そこに居ない人の返事を求めるという矛盾におかしさを感じたのはどうしてなのだろうか。そしてまた、中に人がいるにもかかわらず、声をかけられた人が「誰もいないよ」と大きな声で返事をすることにもおかしみを感じたこともある。

 だがいま声をかけているのは、地震の被災者かも知れない人に対する呼びかけである。平常時の居留守のような「構わないでおいてくれ」の要求とは違うと思うのである。だから私は、「返事がない」=「無人」の方程式がいつの間にか声かけする側の言い訳、責任逃れ、不注意、そんなものにつながっていくような気がしてならないのである。それが常態化してしまうことが気になっているのである。


                                     2016.4.22    佐々木利夫


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誰かいませんか?