このホームページにエッセイを発表しだしてからかれこれ10数年になる。自分でも驚いているのだが、発表数も間もなく1200本を迎えようとしている。ただ最近は、同じテーマの繰り返し、ネタ切れ、浅薄、マンネリなどの思いに襲われ、どこか行き場のない壁にぶつかっているように感じているのも事実である。そうした思いも「老いの一徹」などと名づけてしまうと格好いいかも知れないけれど、時に自虐的になることは否めない。
とは言いつつも、書くこともまた一種の生きがいになっているように思ったりもしているから、一種の自画自賛たる自惚れの境地も混在しているのかも知れない。ところで最近、私の文章の中に「・・・ではないだろうか」という言い方が目だってきているのではないかと、ふと気になってきた。
それで最近のエッセイを読み返してみた。するとなんと先月一か月に発表した5本のエッセイの全部に、この「・・・ではないだろうか」という表現が使われていたことが分ったのである。口癖などという程度を超えて、なんと全部のエッセイに含まれていたのである。そしてまだ恐ろしくて検証していないのだが、昨年発表した70本のエッセイの多くにも、更にはそれ以前のエッセイにもこうした言い回しが使われているような気がしてきたのである。
しかもそうした発言には、前ぶれとも言うべき独特の癖が見られることにも気がついた。それは「○○に対して必ずしも反対ではない」、「△△が悪だと決め付けているわけではない」、「××が間違いだと言いたいのではない」などの意見が、多くの場合先行していることである。エッセイにおけるテーマは○○や△△などである。そのテーマに対して結論的には私が否定的な意見であるにもかかわらず、とりあえず是認しているかのような表現が先行しているのである。
その上で「しかし」と続け、更に「こうした考えは・・・なのではないだろうか」、「○○は・・・ではないのだろうか」と続けているのである。これはまさしく「・・・ないだろうか」とする意見に対して、他者の同意を求めていることになっている。つまり私は、○○や△△などの意見に対しては、最初から反対だということである。私が○○などの意見に否定的であるにもかかわらず、前段に「否定しているわけではない・・・」などと書いて、あたかも賛成しているかのような意見を表明するのはどうしてなのだろうか。
結論として○○という考え方には反対しているのだから、先行する「○○に必ずしも反対ではない・・・」とする意見は明らかに矛盾する。にもかかわらず私はこうした矛盾を、これまでのエッセイで飽くことなく繰り返してきたのである。
エッセイといえども一つの主張である。とは言っても私の書く雑文など、それほど他者に影響を与えるようなものではないことくらい自覚している。だから起承転結相互間で矛盾していようが、はたまた偶然にしろ世界を動かすような内容が含まれていようが、少なくとも「私の文章が社会を動かすことなどない」のだから、そうした前提の下では私の思いなどどうでもいいことである。
最近国会図書館に納本され国から対価を支払われたという蔵書が、「ギリシャ文字をランダムに並べて印刷しただけの内容的には無意味な本」であり、その対価の返還を求められたという事件があった。私の文章はそれとは少し違うだろうが、「無意味」という点では似ているような気もする。読んだ人に何の影響も与えず、そもそも読まれる可能性すら乏しい文章に、特に意味や結果を求める自体がまさに無意味だと思うからである。
それでも少なくとも私自身にとってこのエッセイは、それなりの力を注いで作り上げた作品であることに違いはない。こうして毎週飽きもせずに発表していること自体、少なくとも他者の目を意識していることを示しているのだろう。だから基本的には自己満足だと思う。自己完結に酔っているだけだとも思う。それでも論旨が仮に矛盾しているとするなら、その原因はそうした自己完結の中だとしても糺していかなければならない。ウロボロスの環(自分の尻尾を飲み込んだ環状の蛇)に過ぎないとしても、矛盾を放置するわけにはいかない。
そうして思ったのが、こうした傾向が一種の「自信のなさ」の表れではないかということである。私のエッセイには、もしかしたら主張そのものが「ない」、もしくは「欠けている」のかも知れないと思ったのである。だからあるテーマに主張らしき意味を与えたいと思ったとき、それとは逆の主張を予想して「・・・嘘だとは思わない」、「間違いだとは思わない」などと書くのである。そして私の意見に反対するであろう読者に、あらかじめ迎合しようとしているのかも知れない。つまり、私は私の出す結論に自信がないと言うことなのである。
そしてそうした「間違いだとは思わない・・・」などの自らの意思とは逆の意見を出しつつ、その影にひっそりと隠れていかにも自信なげに、「・・・なのではないだろうか・・・」とつぶやくのである。そのつぶやきは、決して確立した自分の意思として主張しているのではない。「ないだろうか・・・」と問われた他者が賛成するかも知れないその不確かな意思の裏側に隠れた、「恐る恐るの意思」なのである。まさに自信がないのである。大樹の後ろから顔だけ覗かせてる臆病者の意見なのである。
自らの意見が常にオリジナルである必要は必ずしもないと思う。時に大衆に迎合することだって間違いだとは思わない。それでも、他者に発信した意思は「確かなもの」として主張したことの責任を負い、その危険を受け止める覚悟が必要だと思っている。そうした覚悟のない意見は、主張としての価値そのものに欠けているのではないかと思っている。
そうした意味で私のエッセイには「自信」という根拠が乏しい。私たちは、そして特に日本人は、優しさとかいたわりとかいう美徳とも言うべき風習に流されて、自己主張することをためらう傾向がある。対立することを嫌う性質を持っている。
私の「自信の欠如」が、そんな日本人の美徳に影響されていると思い込むほど高尚なものではないことくらい自覚している。だから「・・・ないだろうか・・・」との私の口癖が、日本人の美徳の一種であり変形なのだと言うつもりはない。ただあまりにも強い自己主張は、反対意見にもそれなりの根拠なり裏づけがあることを尊重していないことをあからさまに強調し、相手を拒否しすぎることにつながってしまうのではないかと危惧しているのである。
ならば、何が言いたいのだと問われるなら、「○○はA説だ」との結論が100%正しいのではなく、単に「私がそう思う」程度に過ぎないことも多々あることを感じているからである。もちろん世の中が白と黒の二つだけでできていると思っているわけではない。そんな中で程度の問題としての白、100%ではない黒をどう主張するのか、そんなことに私はいつも悩んでいる。
戦争は100%悪なのか、仮に仕掛けられた戦争が100%悪だとして、その戦争に抵抗し自国や我が身や家族を守るために相手に歯向かうことによる戦争は100%の白と言っていいのか。その歯向かいが時に相手の殺戮につながることがあったとしても白なのか。
世の中のほとんどが、「程度」の問題に還元されてしまうような気がしている。そんな白黒つけがたい世界に生きていると、自己主張そのものがどこか優柔不断なものになってしまうことを感じる。そのことを正当化しようとは思わないけれど、本音と建前、戦争と平和、正義と悪、宗教と邪宗、愛と裏切り、欲望と充足・・・、世の中に対立する立場の存在には事欠かない。そんな優柔不断の真っ只中で、私はいつも中途半端なまま迷っているのである。
2016.2.6 佐々木利夫
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