日本人の高齢化が年々激しくなり、介護が日本の差し迫った問題だと、関係者も政府も繰り返す。なにしろ、認知症患者だけでもあと10年を待たずに2025年には700万人(65歳以上の5人に1人)を超えると予想されているからである(厚労省、2015年発表)。しかも介護が必要になるのは認知症患者だけに限るものではないし、高齢化が切羽詰った状況になっていることは我が身が後期高齢者に入ってきたことや、戦後生まれの団塊世代がすぐ後ろまで迫っていることからも否応なく知らされる。

 自分の身を自らの力だけで律することが難しくなってきて、しかも「生きている」状況に追い込まれたとき、人は他者に頼るしかなくなってしまう。そうした状況を「好きか嫌いか」で判断することはとりあえずはできるだろうし、その判断を自分独自で決められるうちはそれでいいだろう。しかし、「自分一人で生きていく」という選択が事実上難しくなったときは、「他者に頼る」以外の選択肢は「自死」か「孤独死」しかないことに気づく。しかもそうした自死などの望みや実行力などが、例えば痴呆や重篤な病などで妨害されてしまうとしたら、人はどう自分の生き様を決めたらいいのだろうか。

 最近、こんな新聞投稿を読んだ(2016.11.23、朝日)。父親の介護のために、遠隔地の実家に通う娘の投稿である。内容的には美談なのかもしれないけれど、読んでいてどこかしっくりこないものを感じてしまった。こんな投稿であった。

 「父を介護した日」(埼玉県、女性、介護支援専門員、59歳)

 「89歳の父は、最近急に衰えてきた。会話がかみ合わず・・・右半身に痛みもある。耳が聞こえずらくテレビがつまらなくなり、排泄の失敗でイライラも募らせる。・・・「死ねば良かった」という言葉を聞くのは、娘として、とても悲しい。山口県の実家は遠く、めったに帰らなかったが、2年前から半年に1回くらいは帰るようにしている。・・・今月、帰省したとき、一日だけだったが、父の介護をした。育ててくれた親のために初めてできて、うれしかった。私が15年間、介護現場で働いてきたのは、この一日のためだったと思う。・・・」


 59歳の娘は、自らが書いているように、89歳の父の介護について「2年前から半年に一回くらい」実家に帰るようにしているだけなのである。それより以前は少なくともこれより少なかったということだろう。

 私は、遠隔地に住み、しかも仕事を持っている娘が、父(母の記載がないので、恐らく妻を先立たれた一人暮らしの父親のような気がする)の下に通うのが半年に一回しかないことを責めているのではない。そのことが気になったのではなく、父親のためにした介護を「初めてできてうれしかった。私が介護現場で働いてきたのはこの1日のためだったと思う」と余りにも手放しで満足している様子が、私のへそ曲がりを刺激したのである。

 彼女の介護は半年に一日である。繰り返し言うけれど、半年に一回を少ないと責めるつもりはない。埼玉と山口は遠い。彼女の訪問は、家事の合間を縫ったぎりぎりの選択だったのかもしれないし、もしかしたら不可能とも思える状況下でのやっと見つけ出した賞賛すべき隙間だったのかもしれない。

 それでも私は思う。その従事に対して「初めてできてうれしかった」とか、「私の人生はこの一日のためだった」みたいな思いは、どうにも思い上がりのように思えてならない。短い期間の介護しかできなかったことを悔やむべきだと思っているわけではない。父の介護がお座なりだと言いたいのでもない。ただ介護したという事実に、本人がすっかり舞い上がってしまい、従事した自身に満足しきっている様子が、どこかジコチュウに思えてならなかったのである。

 父の現況は、投稿内容によると会話もスムーズでなく排泄の失敗もあるらしい。恐らく半年に一回の娘の介護だけで彼の日常生活が満足に過ごせているとは思えない。娘は介護支援専門員なのでそうした方面の知識は持っているだろう。おそらく介護保険によるデイサービスや、在宅サービス、訪問介護などの利用をしているのではないかと思う。

 そうした状況にあるにもかかわらず、半年に一日、年間二日程度の介護で、「すっかり満足しました」みたいな感想を持つことに、どこか驕りというか「娘としてこれで介護という責任を十分に果たした」という言い訳じみた押し付けが、あからさまに見えているように感じられてならなかった。

 そう思ったのは私の感覚だけの問題かもしれない。それでも私はこの娘にはこの投稿に「うれしい」だけではなく、「一日しか来られなくてごめん、今度来るのは半年後だけれど元気で過ごしてね」みたいないたわりの気持ちが、多少とも欲しかったと思ったのである。「死ねば良かった」との父の思いの底の底を彼女は少しも理解していないのではないか、そんな風に思えたのである。三度目の繰り返しになるが、私は娘の訪問が年二回では少ない、と非難したいのではない。

 少なくとも父の嘆きに寄り添い、単に「悲しい」だけでなく父の思いに共感する心が投稿の中に表れて欲しかったと感じたのである。もちろん私の気持ちなど余計なお世話であり、老婆心丸出しのお節介であることは承知である。それでも私はこの投稿に、軽薄とも言うべき「あまりなはしゃぎ過ぎ」を感じてしまったのである。


                                     2016.12.8    佐々木利夫


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介護の満足感