最近、東京葛飾の亀有交番のお巡りさんを主人公にした漫画が話題になっている。雑誌に連載されてから40年、全集になって200巻を迎えたとしてギネスブックに登録されたことなどが原因らしい。そしてこれを機に筆を折るとの作者の宣言が、ニュース性に追い討ちをかけているようである。この漫画は20年以上も前に数回読んだような気はしているけれど、それほどの興味があったような気はしていない。今回の話題も、せいぜいが「へぇー、そんなものか」くらいな感想であった。

 ただこうした報道をきっかけに主人公の顔が何度もテレビに映し出されたものだから、その異様とも思える二本の太い眉が鼻の真上あたりでつながっていて、数字の3を下向きにしたようなスタイルを、改めて思い出した。まあ、それが作者のイメージした主人公のキャラクターなのだろうから、それをとやかく言うことではない。

 明治の文豪夏目漱石は、小説草枕の冒頭をこんな文章で書き出している。「山道を登りながら考えた。智に働けは角が立つ。「情に棹させば流される。意地を通せは窮屈だ。とかくにこの世は住みにくい」。

 俗人たる私にそこまでの哲学的な発想はないけれど、つい最近、朝の通勤でつま先上がりの事務所への道を歩きながらこの漫画の主人公の似顔絵のことを考えていた。そしてふと「眉って一体何の目的で存在しているのだろう」と考えてしまった。まさに俗人の、どうでもいい愚にもつかない思いである。

 早速ネットで調べてみたのだが、どうもすっきりと納得できるような解説は見当たらなかった。いくつか見つかったものの、どれも似たり寄ったりの内容であった。要約するとどうやら「額から落ちる雨水や汗、外界のほこりや小さなゴミから目を守るため」のものらしい。

 目が人間ばかりでなく恐らく動物にとって、一番かどうかはともかくとして重要な機関であることは分る。人間もそうだけれど、あらゆる動物にとって「見ること、見えること」は、進化の与えた最大の贈り物だったのではないかと思うことすらある。あらゆる感覚の中で、目に与えられた役割は、動物が生きていくうえでの必須かつ最大のも功績であっただろう。

 眉毛の意味に、目を保護するという役割が与えられているだろうことの意味が分からないではない。ただ、目はまず瞼によって保護されており、さらにまつげが同じような機能を補っていることはすぐ気づくことである。もちろん大切な機関なのだから仮に二重、三重の備えがあったところで、「それほど大切だからなのだ」と言われてしまえば反論はできない。だからと言って、「幾重もの保護機能があったとしても、それはそれでいいじゃないか」という理屈は、筋が通っているようでどこかしっくりこないものがある。

 その根拠は、例外はあるにしても全ての動物に「目」が備わっているにもかかわらず、眉があるのは人間だけに限られているように思えるからである。顔つきはそれぞれに違うけれと゜、猿も犬猫も、なんなら鳥や昆虫や魚類だって、基本的に顔の作りは似たようなものである。こんな風に言っちまったら大雑把過ぎるかもしれないが、目は顔の上半分の位置に左右に二つあり、その下に鼻があって口がある、そして両脇に耳がついているという形状は、大方の動物に共通している顔のつくりなのではないだろうか。

 にもかかわらず人以外に、「眉がある顔」を私は知らない。大切な目を守るという意味なら、どんな動物にとっても目の重要性は人間に劣らないはずである。もしかしたら目の大切さは、人間以上なのではないだろうか。少なくとも私には、人間以外の動物の目の必要の程度が人間よりも低いとは思えないのである。

 もちろん動物と人間とは異なる部分もある。たとえばライオンや鹿や猿には、顔の形質は類似しているかもしれないが、人間には毛がないという大きな違いがある。犬猫の顔は毛で覆われているいるけれど、人間には頭髪や髭程度の毛しか生えていない。つまり、人間は毛のないつるつる顔が基本なのである。

 ならば顔に毛のないのは人間だけなのだろうか。そうではない。チンパンジーもゴリラも、人間同様むき出しの毛のない顔を持っている。にもかかわらず、そのどちらにも眉はない。毛のない顔を持っている動物は、マントヒヒ、オラウータンなどそれなり存在するのである。眉のないことを単に毛むくじゃらの顔に眉が埋没してしまっているだけのことだみたいにしてしまうのは、どこか納得できないものが残る。

 鳥や魚や昆虫にまで目の範囲を広げると、中には眉どころか瞼のないものだっている。それらはもしかしたら「汗をかかない」からなのだろうか。炎天下の労働者が頭に鉢巻を巻いているのを知らないではない。日本だけの風習なのか、それとも多くの人類に共通するパターンなのか、私にその知識はない。それでもそのスタイルは、汗が目に入るのを防ぐためにあるのだろうくらいは分る。

 それでは眉毛に、本当に目に入る汗を防止するような機能があるのだろうか。そうした防止機能が皆無だとは思わない。それでも進化の過程で汗防止の必要性から眉毛が発達したとの理屈は、どことなく無理があるような気がする。

 ところで自分の眉毛を触って見ると分るが、生えている部分のすぐ下が骨であることに気づく。その骨はもちろん眼球をすっぽり納めるための、いわゆる眼窩と呼ばれる頭蓋骨に空いている穴の渕なのだが、もしかしたらその眼窩を構成する骨が脆い、もしくは保護しなければならないようなぶつかりやすい位置にあるからなのかも知れない。

 おそらく動物の持つ「毛」の目的は、一義的には保温のためだろう。そして次に自らに加えられる外的な衝撃を緩和するためにあるのだろう。眼窩を構成する骨が他の骨に比べて時に外力に弱いものなのかどうか、それも私には分らない。ただだからと言って「眼窩を構成する骨を外力から保護するために眉がある」なんてことを言ってしまったら、人間だけの特徴にする理由にはならないだろう。ましてや脛に骨を守るほどの毛は生えていないし、格闘で大切に守るべき心臓を囲う肋骨付近にも、特に保護を目的とするような毛は生えていないのだから、理屈として通りにくいような気がする。

 加齢のせいだと思うけれど、私の眉毛にも白いものが目立つようになってきた。また、どことなく薄くなってきているような気のしないでもない。それでも人間に眉が生えるという機能は、確実に遺伝的形質として残されていることは事実として分かってくる。眉の濃い人も薄い人もあるだろうけれど、人間に眉があるという遺伝的形質は、少しも衰えることなく後世代に引き継がれている。

 だから私は、眉毛の存在にはもっと別の意味があるのではないか、しかも何か別の遺伝的な意味が託されているのではないかと思っているのである。そしてその意味や理解がどうにも私にまできちんと届かないことに、どこかもどかしさを感じている。顔にかみそりを当てることは、少なくとも多くの成年男子の抱える習慣だろう。そしてそれは恐らくその昔、人間にも顔に毛が生えていたことの名残りでもあるのだろう。

 進化の過程で人は顔から毛を失くし、チンパンジーもゴリラもマントヒヒも同じように毛を失くするという進化の道を選んだ。そうしたときに、どうして人間だけが、それも特定の人種というのではなく人間と呼ばれることごとくが一人の例外もなしに、眉を残すような進化を選んだのだろうか。そのことが気がかりで、一度気になってしまうと、なかなかそこから抜け出せない自分のいることが、また気がかりなのである。

 もしかしたら「眉の存在」は人が人であること示す進化の象徴なのだろうか。でも考えてみると、鬼にも悪魔にも眉が生えていることに気づく。と言うことは、鬼も悪魔も人間から進化したものだと考えていいのだろうか。いやいや恐らく違うだろう。鬼も悪魔もきっと人間そのものなのだということを示しているに違いないと、どこかで私は確信しているのである。


                                     2016.7.25    佐々木利夫


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眉の起原