やっと・・・、と言ったら選手や関係者に失礼だとは思うけれど、個人的にはオリンピック関連報道から解放されてほっとしているのが実感である。ちょうど折りよく高校野球も終わったので、なんとなく一日が急に充実したものになってきたような気がしている。

 こんな風に書くと、私の生活の毎日がテレビに埋没しているかのようになるけれど、新聞もインターネット報道もオリンピックと高校野球に占拠されていたのは事実だから、「外部情報のほとんどがこれら一色にコントロールされていた」という状況は、どことなく窮屈なものである。いやいや、窮屈以上にいらいらが高じ、考え過ぎだとは思うけれど、どこか個人の生活が否定されているような思いすら抱かせる。

 ともあれそうした状況は一段落した。引き続きパラリンピックの開催になるけれど、オリンピックほどには過熱しないだろうと、期待と不安が交錯する複雑な心境である。願わくば、穏やかな経過を願うばかりである。けっして障害者のオリンピックだから人気が少ないだろうと差別的な感触で言っているのではない。オリンピックのような過熱が、そろそろ醒めてくるだろうとの希望的観測である。

 それはともかくオリンピックはメダル獲得戦の様相を呈した。選手も関係者も報道も金だ銀だ銅だと、かまびすさに拍車をかけている。メダルにはそれだけの価値があるのかも知れないけれど、運動会の一等賞にそこまでこだわることにはいささかの疑問がないではない。マラソン以外にも詩や絵画や音楽、発明や発見などなど世の中に一等賞は沢山あるのだし、それぞれの一等賞を比べることに何の意味があるのだろうかと思ってしまう。

 ところで日本のメダル獲得数は、金が12、銀8、そして銅21の計41個だそうである。それがどんな意味を持っているのかは、そもそもオリンピックに興味のない私には疑問なのだけれど、世界各国のメダル獲得数の報道を読んで、一つの感触を得た。

 それは、「メダルは素晴らしい」という気持ちではなく、「メダルも結局はGNPなのかも知れない」と思ったことであった。オリンピックは国と国の対抗ゲームではあるけれど、結局は選手個人個人の能力を競うことでもある。だから個々人の能力が世界的なルールの下で公平に評価されるゲームであり、人種であるとか感情などがそこに加味されることはないだろう。

 だが、今回のオリンピックにおける国別のメダル獲得数には大きな特徴がある。金メダル数の順位を並べてみよう。1位から順に、アメリカ46、イギリス27、中国26、ロシア19、ドイツ17、日本12・・・、と続く。これを銅メダルまで含めたメダル総数にしたところで、ほぼ似たような順位となる。

 アメリカ121、中国70、イギリス67、ロシア56、ドイツ42、フランス42、日本41、オーストラリア29、イタリア28・・・、これがメダル総数の順位である。

 様々な思惑があるのだろうし、一口に「国」と言ったところで自治領や特別行政区などがあって、それを独立国と呼んで良いのか、ある国に従属していると評価できるのなど難しいとは思うけれど、今回のリオデジャネイロオリンピックの参加国は205ヶ国とされている。

 200もの国について実は私はまるで知識がない。恐らくほとんどがその国名くらいは聞いたことがある程度のものであり、もしかしたらそんな国があることすら知らないかもしれない。そうした中でメダルを獲得できる国はアメリカ、イギリスなど、誰でも知っている国に限られていることは、経済力の大きな国に限られていることを示している。

 つまるところスポーツも結局は国力の違いというか、その国の経済力が評価されているのかも知れない。そのことを批判したいのではない。ただ、そうした個々人の能力をぶつけ合うスポーツという場においても、その国の経済力というものが否応なく表面に出てくることを言いたかったのである。

 オリンピックにおける金メダルが全体でいくつあるのか、私にその知識はない。総数と言うなら、サッカーやバスケットやリレーなど団体で獲得する競技もあるし、マラソンや100メートル競技のように一つしかない種目もあるだろう。団体競技でも一種目にメダルが一つしかないのなら問題はないにしても、10人がチームとして参加した場合には優勝選手全員にメダルが与えられるなら10個になる。

 ただ報道を聞いている限り、どうやら団体、個人を問わず、一種目を単位として計算されているようである。だとするなら、リオデジャネイロにおけるオリンピックは全部で28競技306種目とされているから、306個の金メダルとしてカウントしていいだろう。

 ところで先に各国の金メダル数を掲げたが、6位の日本までの累計が147となり、これに続くフランス10、韓国9、イタリア・オーストラリア各8の四ヶ国を加えた10ヶ国で189にも及ぶ。つまり10ヶ国で金メダル全体の59.47%、なんと6割を占めていることになるのである。

 この10ヶ国のGNPの順位が金メダル獲得数と一致しているというわけでは必ずしもない。だが、なぜかGDP(国内総生産、2015年)による順位が、アメリカ、中国、日本、ドイツ、イギリス、フランス、インド、イタリア、ブラジル、カナダと続いていることと奇妙に符合していることを知る。つまり私たちが常識的に理解している世界を動かしている国々、主要な経済や貿易国とされている国々のほとんどがこのメダル獲得高位国中に含まれていることに気づく。

 そしてそれは決して人口による順位ではない。世界人口ランキング(2015年)2位のインドや4位以下のインドネシア、ブラジル、パキスタン、ナイジェリア、バングラデシュなどなどほとんどの国が含まれていないからである。

 もちろん今回のオリンピックに、「難民選手団」と呼ばれるグループが新たに参加したことを知らないではない。国対国といったイメージを少しでも減らそうとする考えなのかも知れないし、更にはオリンピックなど国として考える余裕などないほどにも荒廃している国々をこういう形で救おうとしているのかも知れない。内乱や経済的疲弊などで国そのものが崩壊しつつある現状で、オリンピックに構っている余裕などない国も多いだろう。

 大国であることが必ずしも平和で自由な国だと断ずることはできないだろう。また、平和、安全、平安、ゆとりなどなど、どれ一つとった所でそれをどう定義するかはとても難しい。だがこうしたメダル獲得国を並べてみると、スポーツもまたある種の安定した国家の存在なくしては成立しないのではないかと思わせるに十分である。メダルの獲得が国威を示すものだとする国があることを知らないではない。そうした国におけるメダルの獲得は、選手の個人的な競技への意欲を超えた、他律的な意思が大きく加わっていることもあるのかも知れない。

 今回のオリンピックではロシアを中心にドーピング問題が大きく影を落とした。それも国家が関与したドーピング疑惑にまで及んだ。そうした行為がスポーツを、そしてオリンピックを歪めている事実を否定することはできないだろう。「参加することに意義がある」と言われてきたオリンピックにこだわることは、今や難しい時代になってきているのだろうか。

 スポーツが科学的に分析され、国家戦略として抽象化され、メダルの獲得が個人にとっても国にとっても、スポーツを楽しむという範疇をあっさりと超えてしまっている現状に、私のオリンピック嫌いはますます加速されていくように思えてならない。もしかしたら、メダルと言った物理的存在そのものが、「走るのが楽しい」、「泳ぐことが嬉しい」といった運動することに対する人間が本来的に持っている喜びを、削いでいる要因になっているのではないだろうか。

 表彰台で順位を宣言するだけのオリンピック、国旗の掲揚も、国歌の演奏も、もちろんメダルの授与もなく、単に「あなたが一等賞です」と伝えるだけのオリンピック、そんなオリンピックがあってもいいのではないか、そんな風に私はどこかで考えている。


                                     2016.9.2    佐々木利夫


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メダルとオリンピック