こんなふうに詠ったのは中原中也である(「空しき秋」第十二 『老いたる者をして』より)。

 「悔いんためなり」をどう理解するかによってこの詩に寄せる読者の思いは違ってくることだろう。私はこのフレーズを「過ぎ越し自らをゆっくりと味わう」という風に感じた。もちろん、30歳の若さでこの世を去った中原中也に「老いの実感」など恐らくなかっただろうし、「老い」にまつわる「悔い」(たとえ私の理解している悔いの意味にしたところで)を味わう余裕もまたなかっただろうと私は感じている。

 この詩から私が感じた「老い」は、「自らの老い」もさることながら、「他者の老い」について理解し共感することも含めてであろうと思う。だから作者がどんな意味で「老い」を捉えようとしていたのか、私にきちんと理解が届くことなどないだろうとも感じている。私に出来るのはせいぜい「こう感じた」というだけであって、中原中也の詩が分ったとも、詩人中原中也を理解できたとも言えることなどないだろう。

 つまりは、「老い」はあらゆる生物にとっての共通な現象でありながら、最終的には個としての自分だけのものなのではないかということである。「私の老い」はまさに私だけの「老い」であって、他者と交換したり共感したりできるものではないのではないかということである。それは「互いの理解」に結びつくことはあっても、「互いに共感する」境地にまで届くことなどないのではないかとの思いでもある。

 そういった意味でこれから書こうとしていることはあくまでも私の独断であり、他者の老いとは共感できないという意味で、一種の偏見になっているのかも知れない。

 老いに連なる事象のひとつは死であろう。老いの行く先を死ととらえるか、はたまた死は生と対峙するものであって、老いとは無関係だと感じるかは人それぞれであろう。死が必ずしも老いとのみ関係しているわけでないことくらいはすぐに分る。生まれて間もなく直面する新生児もいるだろうし、犯罪や事故や災害や戦争などなど、老いとは無関係に命に関わってくる事象はこの世に事欠かないくらい存在しているからである。だから死を老いの片鱗を占めているに過ぎないととらえることも可能だと思う。

 だが、老いの行き着く先に必ず死が待ち受けているという事実を否定することはできないだろう。ただこんな風に人の一生を考えてくると、老いと死にはとても親和性のあることが感じられる。つまり、老いに結びつく死は、とても穏やかだということである。そしてむしろ老いの先にある死には、幸せ感すら漂っているように感じられるのである。

 もちろん老いと死は同義ではない。行き着く先に死があるのであって、老いそのものが死なのではないからである。人は老いだけで死を迎えるものではない。仮にその死因を「老衰」と呼ぼうとも、「老い」そのものが「死因」となるわけではない。だとするなら、「老いに結びつく死」というのは、とても幸せなのではないかと思えるのである。

 「どんな死も恐怖である」と感じることが間違いだとは思わない。人はひたすらに生き延びることを望み、時に不老不死にこだわることすらあった。永遠の命が事実として不可能であると知りつつも、己の存在がこの世から消えてしまうことに言い知れぬ恐れを感じてきた。それは、今ある者が死後もあり続けることと、そのまま墓石の中に消滅してしまうこととの葛藤でもあった。

 ただ、老いを私個人の現実として理解するとき、そうした葛藤は少し違ってきているような気がする。死は恐怖でも矛盾でもなくなっていることに、ふと気づくのである。許容するとまで言ってしまうと少しオーバーになるかも知れないけれど、「死への了解・承認」という環境へ私が少しずつ近づいていっているように感ずるのである。

 これは決して「死の接近への自覚」という意味ではない。一種の「了解する」ことへの接近なのである。「分ってくる」のである。「当たり前」であることに近づいていっているようになってくることである。嫌悪感から少しずつ離れていって、恐怖からも遠ざかっていくのである。

 それは決して死への希求ではない。数年前に亡くなった佐野洋子がエッセイでこんな一言を書いていたことを思い出した。何冊も読んでいるので書名は忘れてしまっているが、それは「いつ、お迎えに来てもいいよ、でも今でなくてもいいよ」、こんな一言であった。そんな彼女の気持ちがよく分かるのである。いつも「死」を意識しながら暮らしているわけではない。過ごしている日々の中に、たとえ夢想にしろ「死」が入り込んでくることは稀である。それでも、こうして私自身がエッセイなどという気まぐれを綴っていると、命であるとか戦争や平和、更には信仰や畏れなどがテーマとなるようなときには、死をどう捉えたらいいのかがふと頭をもたげてくるのである。

 死が友達に思えるほどになるわけない。実戦としての戦争体験もないのでどんな感覚なのか分らないけれど、それを承知であえて言うなら、「戦友」というイメージに近いような気がしている。自らの分身なのかも知れない。気づかないけれどいつも隣にいてただ黙って見ている分身、しかも私の全部を認めてくれている分身・・・、そんな存在だろうか。

 それにしても中原中也は、どんな気持ちでこの詩を作ったのだろうか。「老いたる者」の位置を、彼自身そのものと理解することもできる。自らを客観視して、「・・・だから静かに見守っていてほしい」と理解することも可能である。また路傍を歩む老人を見ながら「・・・静かに余生を送らせてやりたい」と感じたのかも知れない。仮想にしろ30歳で前者の境地を理解できたのか、それとも他者たる老人の思いを想像したものだったのか、この詩からそこまで読み取ることは難しい。そはさりながら「静謐」の言葉、そしてそれへの彼の思いの中に、私はしみじみと「悔い、そして畏れ・承認・了解・安寧」などなどを、私自身の過ぎこしてきた時間と共に味わっているのである。


                                     2016.2.19    佐々木利夫


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老いと死の距離

老いたる者をして 静謐(せいひつ)の裡(うち)にあらしめよ
そは彼等 こころゆくまで 悔いんためなり・・・・・