数週間前の通勤途上のNHKラジオでこんな特集をしていた。「私なら世界をこう変える」というテーマでリスナーから意見を求めて紹介する番組であった。お正月を迎えて、「今年の抱負」の拡大版だと言われてしまえばそれまでのことだし、主催者たるNHKが真剣に「世界を変える」ための意見をリスナーから求めていたかどうかも疑問である。むしろ「新年の夢の一つ」としての意味しかないと言われれば返す言葉もないし、「お節番組」の典型かも知れないからである。

 だがアナウンサーも、「あなたがもし総理大臣だったら(になったら)、もし大統領だったら(になったら)どう日本や世界を変えますか」と煽り立てていたから、単なるお正月のお遊び番組の一つだと割り切ることはできないだろう。しかもこの番組は私の帰宅時間帯に合う形で数日連続して放送されていたから、同じテーマを続けて聞くことになった。そんなことで一過性のお正月番組として見過ごすことは難しかった。

 ただ寄せられた意見の多くが、「皆が優しくなれば・・・」とか「ありがとうの気持ちを持つ」などの抽象論ばかりが目立ち、具体的な「世界を変えるための提言」がほとんど聞かれなかったのはとても残念に思えた。そして聞いているうちに私にはこの番組のテーマそのものに、本質的な無理が含まれているのではないかと思えてきたのである。

 それはこのテーマの底流に、恐らく総理大臣であるとか大統領などの指導者には世論を支配し、世界を変えられる力が全国民から与えられているという、拭いがたい偏見が流れているように思えたからである。そうした流れが誤りだということは、指導者という言葉を、例えば権力者、例えば独裁者、なんなら狂信者と言い換えてみるとよく分かる。

 総理大臣は決して日本人から「好き勝手なことをしてもいい」という全権を付託された者なのではない。大統領もまた然りである。たとえ国民の選挙で選ばれた代表だったとしても、大統領は国民から「国民のためになる政治への努力」を付託されたに過ぎないのであり、「命令できる地位」を与えられたものでも、「国民がその命令に従う意思」を承認したのでもないのである。こうした考えはどの国の指導者の権限の範囲についても同様であろう。

 つまり、どんなことをやってもいいというような権限を白紙委任された存在ではないということである。「そんなことくらい、言われなくても分っているよ」と人は言うかも知れない。恐らくそうだろう。国民の代表とは、「何をやってもいい権限が与えられている」ものでないことくらい、国民は周知なのだと思う。

 だとするならこの番組のテーマやリスナーへの質問そのものが、そうした国民の周知である権限の範囲を逸脱したものになっていることになる。それとも国民、そして番組の主催者は、「どんなことでも出来る権限を国民は総理大臣に与えたのだ」と誤解しているのだろうか。総理大臣が右を向けと号令をかければ、日本中が右を向くことを承認したのだと信じているのだろうか。もしくは、「向けと言われたら右を向かなければならないのだ」と思い、そうした号令を下す権限を総理大臣なり大統領に与えたと思いこんでいるのだろうか。

 この番組の質問の背景には、基本的に二つの命題が含まれている。一つは代表者には何でもできる権限及びその実行を国民は与えることができるという意味であり、もう一つは代表者には世界を変えることのできる意見なり思想なり提言や能力があるということである。

 これが共に錯覚であることは、私には自明のように思える。私たちはそんな権限を代表者に与えたつもりも与えるつもりもないし、また世界のどんな代表者にも「世界を変えられるような具体的な提言」など持ち合わせていないと思えるからである。確かに「世界中が平和になれば・・・」、戦争も貧困もこの世からなくなるかも知れない。「人々が豊かになって思いやりを持こと」も「優しさこそが人類の未来を保証するものだ・・・」もきっと正しい主張だろうことは否定しない。

 だがそれは結果であって、「そのためにはどうするのか」の具体的な行動指針が明示されない以上、単なる空論にしか過ぎない。相手の喉下に銃を突きつけて、平和宣言に署名させることは可能かも知れないけれど、その署名を以って平和の実現と言ってしまっていいのだろうか。貧富の差を埋めるべく、世界的に均衡な再配分を核弾頭で脅し平和宣言へ署名させることで強要することが不可能ではないだろう。だがそれを希望が実現した結果だと言えるのだろうか。

 今がダメだから将来も不可能だと投げやりにするつもりはない。だが人類が人類としてこの地球に登場して以来、戦いや裏切りは人類の本質として継続してきた。それはむしろ人類の基本的な生存そのものの中に包含されているのではないだろうか。

 この番組のテーマ「世界をこう変える」の意見聴取は、恐らく世界平和に通じる提言を期待しているのだろう。テロが世界に蔓延し、難民の発生や人々の貧困には目を覆うものがある。経済の混乱や中国の海洋進出、ロシアのクリミア侵攻、北朝鮮の原水爆実験などなどを、「世界を変える」ことに関連させて思いを馳せたとき、世界を変える目的には様々な内容があるだろう。恐らくリスナーの数だけ多様な「変えたいこと」があるだろうと思う。

 それらは結局、「みんな仲良く」に通じるものだろう。そしてそれはあくまで抽象的な「平和への願い」に象徴される思いに通じるものになってしまうのではないだろうか。

 だがそうした「願い」と「実現」の乖離は世界の誰にも埋められないまま放置されている。それはまさに「誰にも」であった。世界の、そして歴史を通じて、「願う人」も「努力した人」も多々いたとは思うけれど、「変えた人」、「変える力を持った人」、「変えられた人」は一人もいなかったのではないだろうか。

 諦めることは努力もしないことであり、努力をしないことは変えられるかも知れない可能性までをも否定しまうことであるくらい分っている。それはまた、政治家や大統領、何なら王室や皇室に任せることではないことも分っている。そうした「他者に任せること」は、自らなすべき努力を放棄したことになるだろうからである。ただ私は、「平和」だとか「思いやり」みたいな抽象論を口にする人たちの多くが、そのことだけでいかにも自身が平和の実現に努力しているかを誇示しているような錯覚を他者に与えているように思えてならない。

 私にはそうした思いそのものが、無関心そのものを示しているように思えてならない。だから「ならばお前はどうなのだ・・・」、と聞かれるのが一番つらい・・・。それでもなお私は、「世界を変える実効的な提言など世界の誰にも見つけられない」のは、人が人であることの証しだとも思っている。

 それでもなお人は、ないものねだりであることを知りつつ努力するしかないのだろうか、無駄と知りつつ向かっていくしかないのだろうか、それが人の宿命なのだ・・・と思うしかないのだろうか。


                                     2016.1.22    佐々木利夫


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