今年7月26日未明、神奈川県相模原市の知的障害者福祉施設で一人の加害者によって19人が殺害され、26人が重軽傷を負うという戦後最悪とも言える事件が起きた。死傷者のほとんどが入居している障害者であつたこと、しかも加害者が「障害者なんてこの世にいなくなればいい」などと日常から繰り返していたことなどから、「障害者も人間だ」との主張を中心とする世論の沸きあがりを招いた。

 こうした世論の傾向は事件から半年近く経過した最近でも変わることはない。そして障害者が参加したり障害者が話題とされる会合などでは、被害者に向けた黙祷がなされ障害者に対する差別意識を世の中から排除するための宣言の採択や講演活動などへと進んでいく。

 こうした報道や運動を、特に違和感なく私は受け止めてきた。世の中には様々な障害者が大勢生活しており、そうした状況にある社会を健常者も含めた社会全体で支援していくことに、何の抵抗もなかったからである。

 もともと人間を健常者と障害者という二つに区分すること自体に、私は抵抗がある。こうした考えを突き詰めていくと、またまた私の持論である「連続」をどんな基準で線引きするかの疑問にまで行き着いてしまうからである。もちろんそこまで考えなくとも、大なり小なりほとんどの人が何らかのハンディを負っていることが分ってきて、完全な健常者と呼ばれるような人などこの世に存在しないのではないかと言えるほどにも、社会は障害のある者に満ちていると思えるからである。

 こう言うとまさに「程度の問題」なのかも知れないけれど、私自身も「健常者か」と問われるなら、胸張って「100%そうだ」とは言えなくなる。加齢がその主な原因になっているのかも知れないが、私にも体のあちこちにいわゆる「ガタ」がきだしているのを自覚せざるを得ない状況にあるからである。だからその「ガタ」は「歳のせい」であり、「加齢に伴う当然の故障」であり、それゆえに障害ではないと言われてしまえば反論できないような気もする。

 70有余歳を迎えて、二十歳の若者と同じように走ったり飛び跳ねたり記憶したりするのは無理だろう。だからそうした経年に伴う劣化を障害とは言わないのだとするなら、それはそれで納得できないではない。しかし、そうした状況を歳のせいだと納得している一方で、「耳が遠い、老眼だ、足腰が痛い」などの諸々の不便を「障害ではない」と一括して否定されてしまうことにはいささかの違和感を覚える。そうした歳相応による不便さも、事実上の障害になっているからである。それは単に肉体的障害に限るものではなく、痴呆や物忘れなどを含む精神面での衰えについても同様である。

 そうすると、「障害の範囲」という概念はもう少し広げる必要があり、それにつれて「障害者の範囲」も拡大していかなければならないように思えてくる。もちろんだからと言って、障害者であることを理由に一括して保護すべき対象として身包み世話をするというのも、どことなく新たな差別を生むような気がしてどこか抵抗感がある。恐らくは「障害の程度に応じて支える」ことが障害者支援の基本になっていくような気がする。そうするとまたここで、「程度の問題」が提起されたことに私自身はうんざりしているのだが、この考えを拡大していくと、どこかに障害のあるすべての人が支えの対象になってしまう恐れがある。

 さてここで、もう一度「障害者を支える」ことの意味を考えてみよう。恐らくこの「支える」の意味は、「障害」を「支える」ことに本質的な意味があるのではないだろうか。「足が痛くて歩けない」、「目が見えない」、「耳が聞こえない」、そうした諸々の障害に対してその障害を補助することが目的であり、その結果が「そうした障害を持つ障害者の支えになる」ということだと私は考える。つまり、障害が先にあって、障害者は後からついてくるのではないかと思うのである。

 なぜこんなことを思ったかというと、障害者を先に持ってきてしまうと、「人」である障害者に対する先入観が「障害」よりも先行してしまうような気がしたからである。

 どこに違いがあるかというと、「悪人である障害者」という観念が「障害に対する支え」よりも先行してしまい、「支えなくてもいい障害者」というような観念を生み出してしまうような気がしたからである。

 なぜこんなことを思いついたかというと、冒頭に掲げた相模原市の障害者大量殺戮の加害者である彼もまた、障害者だったことが分ったからである。「障害者は世の中には不要である」との思いが間違いであることは、世の中の多くの人の共通する思いであろう。そうした判断を「良し」とするなら、加害者である彼もまた障害者として支えられなければならないことになる。

 ところがメディアにも世論にも、そうした方向はまるで見られなかった。この事件の加害者は「障害者を世の中から排除する」という思いに凝り固まっており、そうした考えは異常であるとして数年前に精神病院に入院して治療を受けていた。自傷・他害のおそれのある精神障害者を本人の意思に反して入院させることを「措置入院」と呼ぶらしいが、そうした状況下にあった彼を「どうして退院させたのか」、「退院後の監視はどうなっていたのだ」との論調が事件後の世の中には溢れてきた。

 結果論としては正しいのだろう。彼を拘束したまま世の中へと放たなかったとしたら、間違いなく今回の事件は起きなかっただろうからである。だが、退院させたことや退院後の監視が行き届かなかったことが事件の原因であり、そうした加害者に対する解放が重大な過失だと断言することだけでこの問題は解決するのだろうか。

 こうした論理の背景には、「危険な障害者は隔離しておくべきだ、社会に解放して支える必要はない」とする根強い差別意識が漂っている。そして、そうした主張には、「無抵抗で他者に害を加えない障害者」は人間として保護の対象とするけれど、そうでない者は排除するとの強い思いが見受けられる。だとするなら、「障害者も人間なのだ」と主張するのではなく、「障害者にも善と悪がある。善である者、もしくは少なくとも悪でない者だけを支えることにしよう」に主張を変更したほうがいいのではないだろうか。

 今回の事件は、メディアも含めて私たちの心の底に潜む様々な差別意識を、あからさまに目の前に広げてくれたような気がする。それは単に「障害者を守れ」とする多くの人の思いだけでなく、「障害者なんて世の中にいなくていい」とうそぶいている加害者の思いにもまた共通しているような気がする。

 黒人への人種差別が今も残るアメリカ、ユダヤ人を抹殺しようとしたヒトラー下のドイツ、世界各地の広がる宗派や民族の対立による紛争、優生保護法(現在は改正されて母性保護法とされている)の名の下に身体や精神に障害を持つ恐れのある子の出産や妊娠したらい病(ハンセン氏病)患者の中絶を「優勢」の名の下に強制してきた日本などなど、人類には異質な物に対する排除意識が途切れることなく残っている。

 あたかもそれは、「差別し排除すること」が人間そのものを構成する本性でもあるかのように「生きていること」から離れようとはしない。もしかしたら私たちは、「少しでも己と異なる他者のすべて」を排除することの中に生き残る術を見つけてきたのかもしれない。生き残るためには、異質を遠ざけ排除することが最低限必要で確実な手段だったのかもしれない。

 確かに「罪を憎んで人を憎まず」は存在する。法の世界の言葉なのか、それとも宗教的な意味で使われているのか、それともどこかの国の格言なのか分らないけれど、そうした言葉は確かに存在している。意味も分からないではない。でもそれは言葉だけではないだろうか。その罪が例えば故意によるものであったとしも、この言葉は適用されるのだろうか。過失にも重大なものから無過失に近いものまであるだろう。果たして「罪」とは刑事罰のみを指すのだろうか。人が加害者に抱く憎しみの思いは、果たして「罪」と「人」の二つに分離できるものなのだろうか。

 だから私には、世の中に蔓延している「障害者も人間なのだから尊重すべきだ」との主張が、いかにも真っ当に聞こえるだけに、どこかとても嘘くさく思えてならないのである。


                                     2016.12.16    佐々木利夫


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障害者の排除