先日の新聞に、読者による討論記事が載っていた。一つの意見というか質問に対する、他の読者3人からの見解を対比した一種の特集である。

 「どう思いますが」と題した掲載記事で(2016.9.21 朝日新聞)、読者からのこんな投げかけを契機とするものであった。

 「『ハト』の政策手段に知恵出そう」(東京都 無職男性 84歳)。「改憲派から護憲派へ質問。@憲法9条だけで日本は戦争を仕掛けられたり巻き込まれたりしないという根拠になるか。A日本が戦争をせずにこられたのは日米安保や自衛隊のおかげかどうか。B北朝鮮や中国への抑止力の必要性。」

 この質問について三人の読者から、それぞれ次のような意見が寄せられた。

 1 東京都 大学生男性 22歳。 @9条の宣言だけでも戦争に巻き込まれる可能性はかなり低くなる。A米国の後ろ盾があったことが大きい。B軍事力を持つことは戦争の引き金になる。日本は軍事化の流れに逆らうべきだ。

 2 大阪府 公務員男性 57歳。@現行憲法下の安保法制の強化により、他国は日本に手を出せなくなった。A日米安保法制があったから日本は戦争を仕掛けられなかった。B核武装している米国との同盟を強化し、防衛体制を整えること。

 3 愛知県 作家男性 60歳。@戦争を放棄している国が攻められることはない。A北朝鮮の核・ミサイルは自国存続のためのものであり、中国の東シナ海活動は彼等からすれば主権を持つ海域へのパトロールである。日本への攻撃など考えられない。B近隣国の脅威は政府の針小棒大な言い分である。

 三者三様の意見があり、様々な意見のあることに反論するつもりはない。ただ、現在の日本を巡るこれほど身近で具体的な問題提起であるのに、誰からも決定的な意見が出てこないことにテーマの難しさを感じてしまった。そして特に三番目の愛知の男性の意見には、これが果たして意見といえるのだろうかとの疑問を持ってしまった。

 ある問題に対して、「私はこう思う」との意見を表明することに制約は加えるべきではないだろう。世界には自分の意見をきちんと表示することが、国家への反乱であるとみなされるような国が現在でも存在している。だが幸せなことに日本は自由に意見表明のできる国だから、どんな意見があったところで聞く耳持たずと頭から否定することはできないと思う。

 だが意見には主張の根拠となるべき裏づけというか事実を示すべきではないかと思うのである。なぜなら根拠を示さない意見は、ことの真偽を確かめる術がないからである。

 3の愛知県男性の@への意見は、北朝鮮や中国が「自分が正しいと思っているからそうした行動を起こしているのだ」とするものである。ところが問題を提起した投稿者は、そうした「思い」が例えば日本の「思い」と離反するときにどうしたらいいのかとの問いかけが背景になっているのである。相手が内心だけで「正しいと思っている」のなら構わないだろう。だがそうした思いを根拠に他者に力ずくで迫ってきていることが問題なのである。

 この愛知の男性の意見が、中国や北朝鮮が「そう思っている」、「だからその思いがどんなに理不尽であろうとも、日本はそれを尊重して従うべきだ」というのなら、そうした考えに与する人がいるかどうかは別にして一つの見解として妥当だと思う。もしかしたら中国や北朝鮮のそうした思いに従うことで、仮にもせよ日本の平和が安定的に継続する可能性だって皆無ではないだろうからである。

 彼は更に追記する。「攻撃を放棄している国が攻められることはありません」。だがこの考えの根拠はどこにあるのだろうか。世界中で今も内乱やテロや戦争が起き、数え切れないほどの難民がまさに今さまよっている現状を、どんな風に考えているのだろうか。彼は難民であれ政府であれ、こちら側が反撃するから攻撃されるのであって、戦闘を放棄すれば支配や従属でなく平等で平穏な回復できるとでも思っているのだろうか。

 私にはそうは思えない。それは私に、「反撃しないことを選択した国や国民」を知らないこともある。何をもって「反撃する」に当たるのか、彼はそこまで書いていないので私には分らない。ただ、相手の要求に対して、「いやだ」と口ごたえすることすら反撃になると解するなら、私はそんな民族や国家がこの世にあったことをまるで知らないし、そんな民族など決していなかっただろうと証拠はないけれど確信している。

 恐らくにらみ合い程度の反撃はするだろうと思う。あらゆる拒否が、その理由を問わずに反撃になるだろうことは、要求する相手からするなら当然の思いだと思う。そこで刀や拳銃を持ち出すことが反撃で、素手なら反撃でない、貿易を中断するような経済的手段なら反撃でない、隣の国の支援を求めるのは反撃でない、黙って従わないのは反撃でないなどと考えているのだとしたら、それは要求する国なり相手をまるで理解していないことになるだろう。

 彼の言う「攻撃を放棄している」ことと、「反撃しない」こととの違いを私はきちんと理解できていないのかもしれない。それでも「攻撃を放棄している」ことが、紛争の解決になるとは私には到底思えない。少なくとも現在の社会なり国際情勢は、力により支配されているからである。

 力が武力だけだとは思わない。ただ、「世界中が平和を望む国民だけで構成されているのなら」、平和の定義はさておくとして、戦争は直ちになくなることだろう。だが、100万人の中の一人、一億人十億人の中の一人が、その手に銃を握って隣人に向かって「俺に従え」と言ったとたんに、その平和は崩れるのである。

 だから「反撃しない」ことは空論なのである。「攻撃を放棄しているから相手は攻撃してこない」は、決して成立しない空論なのである。空論を前提に議論してはいけないのである。人間は自力では空を飛べない。それなのに「いつでも空を自由に飛べる」を前提に議論を進めようとしても、前に進むことはないのである。

 力は武力だけとは限らないと書いた。経済も信仰も、学術も芸術も力になるだろう。だが、どこかで武力を背景に置かない力は、力としての効果を発揮できないのである。

 「話し合い」、それもいいだろう。だが単に相手の言いなりになるだけの話し合いなら、それは話し合いではなく服従である。「服従もまた悪くはない、それで生き残ることができるなら」と考える人がいてもいいだろう。
ただ私はそうした考えに与しない。それは自分が人として生きることを否定することだと思うからである。

 だからと言って武力のみによる対立が解決に結びつくことなど、恐らくないだろう。それは人類の長い歴史が証明していることである。ならばどこままで力を持つべきか、どんな力を持つべきか、日本に背負わされた課題は重い。国として生き残るためにどうすればいいのか。「服従しない」ことは言えても、どうするかの答えはなかなか見つからない。

 相手の要求が実力行使という形でどんどんエスカレートしていくのに、私たちはそうした行為に対して、「遺憾である」、「抗議する」、「厳重に抗議する」、「付き合いをやめる」くらいの反応しか見つけられないでいる。誰もがこれでは効果がないと思いつつ、向かうべき先を見つけられないでいる。


                                     2016.9.29    佐々木利夫


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