NHKのEテレで小学生に向けたこんな番組を見た。数十人の教室で、津波からの避難を教えようとしている授業風景である。

 番組のため、特別に外部から依頼されたらしい講師が、生徒に向かってこんなふうに問いかける。「みんな、海へ行ったことある?」、・・・「波はどうして出来ると思う?」。

 生徒Aは少し考えてからこう答える。「地球が動いているから」。だがその答は講師の思惑と違っていたのだろう、何の反応も示さない。Aの答えに反応せず黙って生徒を見渡している講師の姿を見て、これ以外の答を求めているのだと感じたのだろうか、生徒Bが手を挙げる。「風が吹くから」。

 どうやら、講師の望む答が出てきたらしい。講師は笑みを浮かべて「正解です」と生徒に告げ、この答を中心に話題は津波の講義へと進んでいく。当然、生徒Aが発言した回答は無視されたままで、番組の終了まで一度たりとも話題になることはなかった。

 「防災」、それも「津波からの避難」をテーマにした10分か15分の番組だから、わざわざAの回答を取り上げてコメントする必然は少しもないと講師は考えたのだろうか。それともこの答えは波の発生原因としては完全な間違い、もしくは少なくともテーマとは無関係な答えだから無視することが当然だと思ったのだろうか。

 短い時間内にまとめることが要求されている番組である。恐らく長い録画時間からの編集がされていることだろう。だから現実の授業では、講師はAの答えに対して何らかの反応やフォローをしたのかも知れない。そしてその部分を放送局の編集者が勝手にカットしてしまった可能性も考えられる。だとするなら放送された番組だけを見て、なんだかんだと批判するのは間違いなのかも知れない。それでも、見ている側は完全な受身なのだから、そこまで推し量ることはできない。だから放送を見たままに評価するほかないだろう。

 津波は海水が巨大な波となって陸地へと押し寄せる現象である。その波は私たちが当たり前に感じている海水浴で経験している波やサーフィンなどで理解している波とは発生原因がまるで異なっている。津波は、少なくとも私が理解している限りでは、海岸もしくは海底で発生した地震による海水の隆起などによって引き起こされたものである。少なくとも津波は、風により発生した波が海岸へと押し寄せたものではない。

 もちろん風が引き起こした波が津波のように陸地を襲うことがないとは言えない。ただそうしたケースは一般的には「高潮」と呼ばれ、津波とは区別されていると思う。津波と高潮とが重複して陸地へ到達するような場合だってあるとは思うけれど、この二つは厳密には違うものだと理解している。

 そうした意味で言うなら、生徒Aと生徒Bの回答は共に間違っている。ではなぜ講師はBの回答のみを取り上げ、Aを無視したのだろうか。恐らく一般的な意味での波は風によって引き起こされるものであり、その風がそよ風になったり、海辺に打ち寄せてくる波の原因になったりするのであろう。他方、津波は見かけ上は「巨大な波」が押し寄せてくる現象である。だから、「海岸に寄せてくる波」という意味では同じ形態であり、その類似性に講師は着目したのであろう。

 「波の襲来」、そうした類似性から講師は津波の講義に入ろうとしたのだと思う。たとえBの答が間違っていようとも、「波が陸地に押し寄せる」という現意味では類似しているのだから、そこに生徒の共感を得られると思ったのだろう。

 そうした思いが分らないではないけれど、Aの回答をまるで無視してしまっていることに私は引っかかるものを感じたのである。Aの回答が仮に講師の思惑と違ったとしても、その背景を理解してやるのが教育の場なのではないだろうかと思ったからである。仮にAが、バケツで水を運んでいるときに、バケツの動きによって水がこぼれる現象を経験し、そこから波が起こること、水が溢れることと津波とを関連付けたのだとしたら、それはそれできちんとした回答になっているのではないかと思ったのである。

 波の発生が一義的には風によるものだとしても、その風は太陽熱で温められた上昇気流である。そしてその気流が地球の自転によって地表を移動する現象でもある。風が、しかも強い風が台風もどきになって陸地に押し寄せるのは地球が動いているからである。それは高潮と呼ばれ、津波とは直接関係ないかも知れない。それでも「巨大な波が海岸に押し寄せる」という意味では津波となんら変わるものではない。

 地震の発生プロセスがどうなっているのか、私にきちんと理解ができているわけではない。それでも地表は海水も含めたいくつものプレートと呼ばれる岩盤から構成されており、そうしたプレート同士の衝突や片方の沈み込みなどといったひずみの蓄積が地震の原因になっていることは広く知られている。だとするなら、「地球が動いている」というAの回答が「地球の自転」のみを指しているのか、それとも「プレートの移動」までをも含んでいるのかは、十分検討する必要があったのではないだろうか。

 仮にAの回答が単に自転のみを考えていたのだとしても、果たして地球の自転とプレートの動きとはまったくの無関係なのだとあっさり言ってしまえるのだろうか。プレートはどろどろに融けた地球内部の溶岩の上に浮いている海水をたたえた岩盤である。だとするなら、プレートの移動が地球の自転と無関係だとは、私には到底思えないのである。

 たかだか、「津波が来たら迷うことなく高台に逃げましょう」を 教え学ぶだけの教育番組の放送である。津波の発生原因にそれほど目くじらをたてることなどないとも思う。ましてや津波が発生する原因への話題提供たる導入部に過ぎない「波の発生」に関するきっかけは、一種のお遊びである。それでもなお私は、「Aの回答を無視した講師の姿勢」に、教育という基本的な視点が欠けているような気がしたのである。

 仮にAの回答が完全に間違いだとしても(私にはそうは思えないけれど)、生徒が考え付いた回答の背景に思いを寄せることのない教育のあり方は、どこか間違っているように思えたのである。仮に救いようのないほど間違った答えだったとしても、生徒が考えて出した結論にそれなりの評価を与えるべきが教育ではないかと思ったのである。

 私が生徒Aなら、自分の回答が無視されたことに傷ついたと思う。何の反応もなかったことに対して、回答が間違いであったこと以上に傷ついたと思うのである。教育というのは、決して正解だけを求めるものではなく、むしろ正解などどうでもいいような場合さえあるような気さえしている。間違いの中から、どうして間違ったのか、どこが間違いなのか、そんなことを追求していくことにこそ、「教える」ということの本当の意味があるのではないだろうか。正解を出すことではなく、「考えること」そして「発言すること」の中にこそ、教えることの本当の意味があるのではないだろうか。

 こんな食い違いの話を聞くたびに、私はかつて読んだことのある本のことを思い出す。生徒の作文を読みその作文を訂正した先生の話である。生徒はこう書いた。「うさぎの耳は赤い」。先生は迷わず赤ペンを入れたという。「うさぎの耳は長い」。うさぎの耳は長いかも知れない。でも毛細血管が網目状に張り巡らされたうさぎの耳は確かに赤いのである。

 このとき添削した先生は、生徒の持っていた溢れるばかりの情感を迷うことなく消し去ったのだと思う。自らの判断が正しいことを、疑うことすらしないままに・・・。


                                     2016.527    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 
津波・子どもとの会話