今朝の事務所のテレビ風景である。両手にカニの爪を模した赤い手袋をはめ、頭にはカニまがいの帽子をかぶっている。その姿で手足を動かして体操とも踊りともつかぬ動きで、網走のPRをするのだという。おまけに体を動かすので健康にもいいと、主催者はこの企画に自画自賛しきりである(2017.6.27、NHKテレビ「あさいち」)。

 会場は老人ホームなのだろうか、それともデイケアもしくは特別なイベントの特設会場なのだろうか。踊っているのは、インストラクターと呼ばれる若い女の子を除き全員が老人である。その全員が赤い手袋と帽子で、一斉に踊っている。

 インストラクターは満面に笑みを浮かべて、楽しいですよ、健康にもいいんですよと、こうした行事のPRに余念がない。だが、だが、私はその集団で踊っている老人の姿に、なんだかとても悲しいものを感じてしまったのである。

 それは、笑っているのはインストラクターだけで、一緒に踊っている老人たちの顔に少しの笑みも見られなかったからである。老人からは楽しそうなどころか、真面目に踊っていますみたいな感じさえも受けなかったのである。もちろんイヤイヤ動いているように見えたわけではない。それでもお年寄りの表情からは、「楽しんで踊っています」というような気持ちは少しも伝わってこなかったのである。

 目の前にデンとテレビカメラが据えられ、この番組はNHKで全国へ中継すると伝えられ、恐らく生まれて始めて自分の姿がテレビに映ることになったであろう人たちの集まりなのだと思う。しかもこうした企画は数日前に参加者へ伝えられ、参加する老人たちはそれぞれ親戚や知人や友人など、多くの人たちへ今日の中継を伝えたことだろう。

 だから目の前のテレビカメラに緊張し、笑顔で踊る余裕なんぞなかったのかもしれない。そんなこんなで表情の硬さはともかく、内心は踊りを楽しんでいたのだと言われてしまったら反論の余地はない。

 それでも私には、楽しんでいるような雰囲気が誰からも伝わってこないことが、どうにも気になったのである。私は、カニ体操(カニ踊り?)を批判したいのではない。踊り方が下手だとか、振り付けも運動としても未完成だとか、地域のPRの手法として疑問があるなどと言いたいのでもない。

 ただ、参加している老人の誰もが、少なくとも楽しんでいるように見えないことが、気になったのである。老人に対するこうした風景は、最近ではそれほど珍しくなく存在する。介護などの必要な高齢者の増加がそんな現象を生んでいるのかもしれないけれど、健康のためと称し、生きがい開発に役立つのだと称し、こうした手法が老人の集まる様々な場面で採用されている事実を、私たちは日常的に見ることができる。

 ただ私はそうした手法に、どこかひっかかるのである。それはそうした行事の開発者、考案者に、「老人はこうしたことを喜ぶものなんだ」との思い込みや驕りがあるように思えてならないからである。そして、「これもあれも、みんなあなたのためを思ってやっているのですよ、やってあげているのですよ」みたいな、善意の押し付けまがいの臭いをそこに感じてしまうのである。

 確かに私たちは幼稚園や小学校のときから、一つの教室に数十名が集められ、先生一人が一段高い教壇に立ち、生徒に向かって一斉に歌わせたり音読させるという集団教育スタイルの中で育ってきた。どんなときも集団で先生の指示に従うのが当たり前で、それは体操の授業も音楽の授業も、はたまた遠足や運動会などでも変わることはなかった。常に先生の一声で生徒全員が同じ行動をとることを基本としていたのである。

 そうしたスタイルが、集団をコントロールする上で効率的であることに疑いはない。だが、そうしたやり方を、果たして老人の集まりなどにまで広げてしまっていいのだろうか。私は、例えば教育などの場にこうした手法が採用されることまで否定したいと思っているわけではない。だから老人の集まりであっても、例えば老人大学などで受講するような場面にまで、こうした手法の採用を否定したいわけではない。

 ただデイケアなどで、三々五々集まった老人たちが、一斉に「チイチイパッパ、チイパッパ」と歌わせられているような場面をみると、無性に腹が立ってくるのである。もちろん歌うのが楽しいと思っている老人だっているに違いない。でも、楽しいと思わない老人だってきっといると思うからである。中には歌うのが苦痛と感じる老人だっているだろうし、歌うのは好きだけれど団体で童謡を強制されるのは嫌だと思っている人だっていると思うのである。

 そうした個々人の思いは、身勝手な老人のわがままだと言われてしまえばそれまでのことである。そこまで個々人の希望を叶えるだけの設備もなければ人手もないし、予算もないと言われるかもしれない。また、そんなことまで言い分を聞いてしまったら、欲望や好みが無制限に広がってしまって際限がなくなると言われてしまうかもしれない。だから効率的に老人の世話をするには、上位下達の一斉方式が一番安上がりで合理的なのだと言い分は続くのだろう。

 だがそれは、老人の集まりを単なる「保護すべき老人の固まり」としてしか見ていないからではないだろうか。「世話をする側」が勝手に「される側」を一まとめに見て、保護し、いたわり、見守ってやっているのだと、高みから見下ろしているからなのではないだろうか。「自分は見守る側として一人の人」だけれども、対象は「保護すべき老人の集団なのだ」と見てしまっているからのような気がする。老人もまた、一人ひとりの人であるとの認識が、そこにはまるで欠けているように思えてならない。

 真っ赤な手袋と帽子と衣装にくるまった老人が無表情に踊っている、そんな姿を今朝のテレビで見ながら、私はこの老人たちは一体何を考えているのだろうかと気になってしまった。そしてふと、その無表情な姿に、つい老いた我が身を重ねてしまったのであった。


                                     2017.6.28        佐々木利夫


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カニと老人