ボランティアであることを自認する者が、ボランティアであることの見返りを意識したり求めたりすることがある。その見返りとは必ずしも金銭や金銭等価物、更には金銭に評価できるものとは限らない。それは、何らかの報酬を求める思いであって、その形態は地位、名誉、称賛、感謝、有利さなどなと゜・・・、何だって構わない。

 そしてボランティアがこうした見返りを意識したとたんに、ボランティアそのものの存在や活動が、鼻持ちならない異臭を放ってくる。それはもしかしたら見返りを求める意識の臭いではなく、ボランティアであることを意識していることそのものが発している臭いなのかもしれない。

 ボランティアが善意であることを疑っているわけではない。ただボランティアの意識の背景には、ボランティアであることに対する自己満足、自己陶酔、自己承認の意識があり、そうした意識そのものが報酬としての意識に結びついているのではないだろうか。そして結びついたとたんに、その意識は避けがたく腐敗臭を放ち出すのかもしれない。

 なぜこんなことを言い出したかというと、地震や豪雨などの自然災害が最近頻発しており、そこへ支援に出かけたボランティアの映像がテレビなどで目立つようになってきたからである。もちろんそれだけでこんな意識を持ったわけではない。

 ただそこに写っている多くのいわゆるボランティアの表情が、いかにも「私はボランティアです。善意だけでここに駆けつけたのです。」と、満艦飾になっていることが気になったのである。それは私の中に、ボランティアというのは「常に控えめで、人前に堂々と出てくるものではない」といった先入観があるからなのかも知れない。

 つまり、ボランティアというのは常に「足長おじさん」であること、つまり匿名であるべきだとの意識が私の中に強く残っているからなのかもしれない。だからと言ってテレビに写っている彼ら彼女らが、自らの名前を意識的に表示しながらボランティア活動をしているなどと言いたいのではない。

 ただ、ボランティアの活動というのはよほど気をつけないと、すぐに腐臭を放つ要素を持っているのではないだろうか。その原因はもしかしたらボランティアにあるのではなく、ボランティアに引け目というか、負い目を感じてしまうような受け手側の意識にあるのかもしれない。

 例えば私を例にとるなら、後期高齢者層に含まれる歳になって、自らによるボランティア活動などは体力的に思いも寄らなくなってきていることは自明である。こうした何の助けにもならない現実に負い目を感じている目が、活発に活動している相手に対する反感みたいな感情を誘発するのかもしれない。体力がないのなら、1円でも100円でも、可能な限り金銭での寄付をすることでだって参加できるではないかとも思う。それでも、年金暮らしの身では満足できるだけの寄付などは難しい。そんなこともボランティアに対して負目になっているのかもしれない。

 そうした様々な負目からくる反感を否定はしないけれど、それでもなおボランティアには「助けてやっている」という勝者にも似た意識が無意識にしろ存在しているような気がする。そして、善意であることの満足や喜びを反映した笑顔が、私にはあたかも正義の押し売りであるかのように見えるのである。そんなボランティアの表情に触れるにつけ、提供した援助なりサービスの程度を超えた差額が、報酬としてボランティアその人に溜まっていくように思えてならないのである。

 そしてそうした無意識にしろ報酬が残るようなボランティア活動そのもの、もしくはボランティア活動をしていることを表明する行動そのものの中に、臭いの発生原因が含まれているように思えてならない。ボランティアであることを黒子のように隠すことは難しいのだろうか。また隠せないまでも、少なくとも提供したサービスがボランティアとして要求される水準から見てまだまだ低く未熟であることを自認するような控え目さが要求されるのではないだろうか。

 もちろんもちろん、善意であるボランティア活動に、どうしてそんな気配りが必要なのかとの疑問が起きるかもしれない。少しのやましさもない純粋な善意に行動に、どうして黒子や控え目な表明などが要求されるのかとの疑問が湧くだろう。それについて、私にはたった一つしか答がない。それは、善意も臭うからである。そしてボランティアの臭いはボランティア本人に届くことはなく、しかも耐え難い腐臭だからである。


                                     2017.10.22        佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 
ボランティアの臭い