数日前の3月11日が、死者・行方不明者2万人を超えた東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)から6年目の日であった。このとき東北を襲った津波は、三陸沖の海底で発生した日本最大規模とも言われるマグニチュード9.0の地震を震源とするもので、太平洋に向って広がるリヤス式海岸を直撃した。その巨大津波は東京電力福島原子力発電所のメルトダウンを誘発するまでの甚大な被害を起こし、その後遺症は6年を経た現在も続いたままである。

 当然のようにこの日を追悼する集会があちこちで開かれ、被災者はもとより識者・政治家・評論家などなど、様々な人たちが講演・回顧・教訓・体験談などを披露していた。

 そんな中で気になったのが、「風化」という言葉であった。話している誰もがほとんど例外もなしに、こうした体験なり被災の現状を風化させるな、と叫んでいたのである。恐らく発信者には、あれほどの被害があったにもかかわらず今では世間から忘れられかけているとの思いがあり、そうした危機感を訴えたかったのであろう。風化を嘆く言葉は、あたかも風化は一種の絶対悪ででもあるかのように人々に訴えかけ、「事件を忘れるな、あの時の記憶を忘れるな」を繰り返していたのである。

 そんな言葉があちこちで繰り返されるのを聞いていて、風化するというのはそんなに悪いことなのだろうか、と疑問に思ってしまったのである。

 風化を嘆く人々も、「忘れること」そのものが悪だと断じているわけではないのかもしれない。恐らく真意は、「東北大震災を忘れないでほしい」にあるのだろう。ある事実や記憶を忘れるなとの主張を、私たちはこれまでに何度も繰り返してきた。それは日本人だけのものではない。「真珠湾を忘れるな」は、アメリカが日本との戦争に向けて発したスローガンだったし、私たちも「第二次世界大戦を忘れるな」、「沖縄戦を忘れるな」、「関東大震災を忘れるな」などなど、無数の「忘れるな」を繰り返してきた。

 それは「ある事柄」を客観的な視点から「忘れるな」と言っているのだろうか。形式は確かにそうである。「○○が風化していっている」、「○○を忘れるな」のメッセージは、「○○」について言われていることだからである。

 だが本当にそうなのだろうか。「○○」に利害のある人だけが、その利害のゆえに「忘れられてしまうこと」に抵抗しているだけのことなのではないだろうか。「特定人にとって忘れられては困る」ことが風化してしまうことを、憂慮しているだけなのではないだろうか。そして私はその「忘れられて困る」ことそのものが、「困る人の利害」に結びついているのではないかと感じるのである。

 こんなことを言うと、「決してそんなことではない」との反論を受けるだろう。戦争で多くの犠牲が出たのだから、そうした失敗を繰り返さないためにも戦争被害者だけでなく地球人全体が「戦争の記憶を風化させてはいけない」と言うかもしれない。津波の恐怖を、津波を知らない後世に伝えるためにも「東日本大震災の記憶を風化させてはならない」と言うかもしれない。原子力発電所の事故も、熊本大震災も、土砂崩れを起こした大きな豪雨なども同様であろう。

 だが人は忘れるのである。忘れることが人なのである。そして忘れることの中に、人は人として生きていけるのだと私は思っている。個人の記憶は次第に薄れ、そして忘却し、死と共に完全に消えてしまう、それが人としての生き様なのである。

 記憶を記録として残すことはできるだろう。映像としてあたかも体験を再現できるように残すこともできるだろう。だが、その体験しなかった者、その事件後に生まれた者にとっての事件の映像は、記憶ではなく知識になってしまうのである。そんなことがかつてあった、それだけのことにしか過ぎないのである。

 昨日のことは記憶しているだろう。だが、一年前、二年前、十年前のことは次第に記憶から消えていく。消えていくというのは、そのまま記憶が風化していくことを示している。つまり、記憶が風化する、していくのは当たり前のことなのである。私たちは記憶が風化することの中に、自らの生き様を託してきたのである。新しい記憶の獲得とそれが風化していく過程を、人は人生と呼んできたのである。

 忘れることのない人生、風化することのない人生などは、世界中のどんな人間にも与えられたことのない事実なのである。楽しい記憶も、つらい記憶もやがては忘れてしまう、私たちは「生物」という種をそういうもとのして進化させてきたのである。

 そして言えるのは、忘れるから人生が豊かになってきたことである。風化する記憶の中に、私たちは個人としての満足した生き方を押し込めてきたのである。「一切を忘れない」ことが、恐らく耐え難い悲劇を産むであろうことを、私たちは本能的に知っていたのかもしれない。

 過去から学ばないことが、同じ過ちを繰り返す人類の不幸を招いていることを否定はしない。例えば戦争がそうかも知れない。だが、どんな戦争にも「起こした人」、「理不尽にも巻き込まれた人」、「それによって物的にしろ精神的にしろ利益を得た者得ようとした者」などが常に存在する。どんな立場の者の戦争の記憶を「忘れてはいけない」と要求しているのだろうか。「今度戦争が起きたら、決して負けない」、「今度こそ勝ってみせる」との思いを抱いている人の記憶は、「風化させない」こととどう整合性をとっていけばいいのだろうか。

 「戦争は悪」との思いだけを正義として「風化させない」ことを認め、「戦争に勝つことや祖国を守るために戦う」思いであっても、それは「悪い思想だから忘れてしまえ」と分けてしまうのは、「風化」の意味を二分する間違った誘導になってしまうのではないだろうか。

 風化の意味を、時間と共に消えまたは薄くなっていく記憶として捉えるなら、そしてまたそれを、忘れる、忘れかけていくことと解するなら、風化を支援する言葉を私たちはたくさん持っている。

 「許すとは、忘れることである」、「恨みつらみは、くよくよしないで忘れてしまいなさい」、「つらい過去もやがていい思い出になる」、「復讐からは何も生まれない」、時間の経過がつらい記憶を治癒していく言葉を「日薬(ひぐすり)」と呼ぶなど、忘れることが人を救うことを私たちは嫌になるほど知っている。

 考えても見てほしい。痛みや苦しみや嘆きなどにぶつかったときの記憶が、生涯薄れることなくそのまま残ってしまう、忘れないで残されるのだとしたら、恐らく私たちは「生きていくこと」そのものに絶望してしまうのではないだろうか。

 それとも「風化への批判」とは、ある個人なり団体にとっての「記憶しておいてほしい」と望むことだけに対する恣意的な忘却を指しているだけのことなのだろうか。風化を嘆くということは、特定人が望む経過に反することへの批判でしかなく、つまりは特定人の独善、エゴなのだろうか。それとも、「ほんのささやかな個人的な願望」とでも理解すべきものなのだろうか。

 落語「じゅげむ、じゅげむ」で唱える名前の中に「・・・五劫のすりきれ・・・」というのがある。何でも三千年に一度天女が地上に降りてきて、羽衣の袖で地上の岩をこする、そしてその岩が擦り切れてなくなるのを一劫と言うのだそうである。時を重ねることで、人は岩すらも消えてしまうことを理解し、平家物語はその語りの冒頭で「・・・偏に風の前の塵に同じ・・・」と人生の無常を訴えた。

 風化を「時の前には何事も消えてしまう」と理解するなら、風化もまたしがらみを解き放つ人生の救いなのかもしれない。忘れることは人に与えられた救いであり、風化していくこと自体の中に人生そのものが込められている・・・。私は風化をそんな風に確信とも言えるまでに感じている。


                                     2017.3.16        佐々木利夫


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風化は悪なのか