本年1月20日にアメリカ大統領に選任されたトランプ氏が、僅か10日足らずの間に10数通もの大統領令に矢継ぎ早に署名し、世界をかき回している。その大統領令の内容を強権・内向きと呼ぶのか、ポピュリズム、孤立主義、保護貿易主義などと呼ぶのか、はたまたグローバル経済や世界の安全保障を理解していない独断だと解するのか、その辺のところは必ずしも私の中できちんと整理できているわけではない。それでも「アメリカを一番にする」とのスローガンだけは、その当否はともかく伝わってくる。

 対する各国の対応も様々であり、その渦中に日本もある。「アメリカ一番」のスローガンのどこがどんな風に間違っているのか、私にはそのことも良く分っていないのだが、結局は「自国が良ければ、他国はどうなったって構わない」とする思いがアメリカ全土に広がっていくのではないかとの危惧が、世界に広がっているような気がしている。

 まあ「ほどほどに」に代表されるような、「異なる意見は足して二で割る」式の極めて日本的な発想はともあれ、「自国の利益」を基本に考える政府の存在は、古今東西を問わず世界がこれまで経験してきた歴史そのものではなかっただろうか。戦争や通商などの付き合い方も含めて、ある国が他国と紛争し紛争を避けるために交渉してきたこれまでの歴史は、基本的には自国の繁栄を願ったこと、もしくは「自国の繁栄による自国民の満足こそが政治指導者たる私への支持そのものになる」と思い込んだ為政者の思惑によるものではなかっただろうか。

 そうしたとき、自国民の満足というテーマがキーワードになるとして、その満足は様々な様相を持っているだろう。ただ、極端に要約してしまえるなら、それは「国民の安全と個人の豊かさ」に代表されるのではないだろうか。安全とは警察機能も含めた戦争やテロなどの国民に対する侵害への対応力、つまり防衛である。もう一つの豊かさは、いわゆる企業収益も含めた国民各人の懐に入る利益のことである。

 ここでは防衛から少し離れて、豊かさの問題を考えてみよう。豊かさとは基本的には会社経営者も含めた企業なり個人の利得の全国的なトータルということになるのであろう。ただ、その数値を現実的に個別に把握することは非常に難しい。個々の企業や個々人の利益が個別に把握できるのなら、俗な話になるけれど世界各国の持つ税務署機能は不用になるだろうからである。税務の監査機能は必要悪と言われる場合もあるけれど、これなくして世界の国々や政府の存立は不可能だといってもいいからである。

 それでも一国の経済力を把握することで国力を測定しようとする要求は止まず、国民の所得を間接的にせよ把握する手法として、生産や消費などの経済活動から推計することを考えた。その一つがGDP(gross domestic product・国内総生産)と呼ばれる概念である。これは国内で一定期間に産み出された付加価値の総額のことである。

 そしてこの数値がその国の経済を示す指標として各国のそれと比較され、それが国力として評価されるのである。つまり、GDPは国の経済力を示す指標であり、その多寡はそのまま強い国、弱い国を判断する指標とされるまでにいたっているのである。

 因みにGDPの世界のトップはアメリカ合衆国であり、2000年まで第二位は日本であった。2010年以降は二位の座を中国に譲り渡し、日本は現在世界第三位になっている。因みに四位以降は、ドイツ、イギリス、フランス、インドと続き、ソ連は10傑には入ってこない。

 ここで私はGDPの持つ具体的な意味や計算過程を論じたいのではない。また、GDPを利用した国際比較が、間違っているのではないかなどと言いたいのでもない。GDPがなぜ問題なのかは、日本語に訳された「国内総生産」という語だけで十分だと思うからである。言葉通りGDPとは「国内における総生産」、つまり「国内で生産されたもの」の総計を金額として数値化したものである。

 だとするなら、生産を高めることでGDPが高まることくらい、小学生にだって分る理屈である。そしてGDPの高い国のほうが、世界経済の中で流通や貿易などの経済を支配する支配する力が大きくなるであろうことも自明である。先に述べた一位アメリカ、二位中国・・・の順位は、そのまま世界における経済支配の順位でもあるということである。

 各国はこのGDPの拡大に狂奔した。拡大は国際的な勝利を得ることになるのみならず、そのまま国内経済の発展でもあったからである。そうした狂奔は、今でも続いている。安倍総理大臣は昨年9月、日本のGDPを2020年頃までに600兆円とするとの目標を打ち出した。2014年のそれは約490兆円だと言われているから、世界第三位にあっても更なる「追いつけ追い越せ」の欲求にはすさまじいものがある。それは結局国民に向けて、経済成長戦略の更なる推進を示したものだといえるだろう。

 かくもGDPは神話となり、自国の経済を高めることが国民の豊かさにつながるとの思いを国民にも広めることになった。さてここで、もう一度GDPの意味を振り返ってみよう。この意味は「生産」である。正確な表現でないことを承知の上で言うのだが、俗な言葉で例えるなら、生産とは「売り上げ」、「収入」のことである。国としてひたすらに売り上げの増加を図ることが、GDPの拡大になっていくのである。

 GDPの測定は、売り上げだけである。それを拡大するだけで、GDPは拡大していくのである。そこで問題となるのは、総生産の測定としての売り上げの計算にはプラス面が加算されるのみであることである。そこにマイナスの評価は一切考えられていないことである。実際のGDPの計算にマイナスの減算要素が加味されているのか、そこまでの検証を私はしていない。だが、多くの活動にはマイナス面が表裏一体として存在しているにもかかわらず、計算過程にそうした評価が加味されているような報告や報道が一切ないことは、逆にまったく考慮されていないことを如実に示していることになるのではないだろうか。

 製造における排気ガスや廃棄物などの公害の発生、流通における道路や橋梁の損傷、包装などの資源の浪費、医薬品などによる副作用、消費における肥満や使用可能な商品の廃棄、原発の事故や放射能廃棄物の処理などなど、あらゆる効用には常にマイナス面が表裏一体のものとして張り付いていることが分る。

 にもかかわらず、効用の一方の側面でしかないプラスの生産面だけを加算し、マイナス面は見ない振り、存在しない振り、見えない振り、存在しないものとみなす振りをしているのがGDPなのである。そうした暗黙の了解の下に作られているのがGDPなのである。

 南アジアに位置する王国ブータンは、国連に加盟した1972年の翌年に、「国民総幸福量」という指標を用いて国民の豊かさを精神面から測定しようとの提案をしたと言われている。その数値が果たしてどこまで国民の実質的な幸福度を表示できるのかは疑問なしとしない。しかしながら、政府のGDP拡大を目指した政策は、そのまま企業や国民の目をマイナス面から背けることにつながってしまったのである。

 地球温暖化ガスの増加や、数多の公害問題などにおいて多くの企業が見せた被害無視や無関心や言い逃れはその表れである。「産めよ増やせよ、地に満てよ」、「大きいことはいいことだ」とばかりにGDP拡大音頭に国民は踊りされ、加算するだけの生産を評価することだけに狂奔した政府もまた共に踊った。今ある現実は、その踊り狂った私たちの責任の結果なのである。

 どこかで、「それが人間というものなのさ」と言う声が聞こえるような気がする。そうした経過を資本主義と呼び、自由経済と呼ぶのかもしれない。こんなこと考えたくもないのだが、もしかしたら民主主義そのものがそうした思いの固まりで構成されているのだろうか。根拠もなく、単なる直観だけで言っているのだか、人間だけが「人間も含めた自然という世界」を破壊し続けている唯一の生物であるような気がしてならない。

 もちろん、地球が人間だけのために存在しているものでないことくらい百も承知である。だから地球は人間を異質な存在とみなして、今まさに排除しようとしているのだろうか。利益だけを追求してきた人類は、発生から僅か数千万年を経て、その最後の数千年に犯した過ちのために絶滅されようとしている。


                                     2017.2.4        佐々木利夫


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GDPへの疑問