これから書こうとすることは、全体として皮肉である。もしかしたら嘘を書いているのかもしれない。それでも、芸能人が私たちを欺いているのなら、それを逆手に取って皮肉ることくらいは許されるのではいだろうか。そんな気持ちが、このエッセイにつながったのである。

 私はどちらかというと味音痴である。そのことは何度となくここに書いたことがある。別にマグネシュウムなどのミネラル分が不足して、私が味覚障害に陥っていると自白したいのではない。普通に味わい、普通に美味しさを感じているつもりなのだが、「世の中にこんなに美味いものがあるとはしらなかった」とか、「余りの美味しさに言葉を失った」、「その味わいは、天上からの音楽を聞く思いであった」などのような、味覚について生まれて始めてとも言うような、それほどの感動を経験した記憶がないからである。

 実感的には、芸能人と私との間にそれほどの味覚の違いはないだろうと思っている。芸能人といえども様々であり、カップラーメンで毎日を過ごすような売れない者もいるだろうし、金ぴかの宝石を身にまとい数億円数十億円もの豪邸に住み、世界の珍味を毎日食卓に載せているような者まで千差万別だとは思う。

 広い世の中だから、特別な味覚に恵まれている者がいないとは断言できない。しかし、「舌」という共通の感覚器官を通じて味わっているのだから、人による違いはそれほどないと思っている。

 このエッセイを書く発端になったのは、いつものようにテレビのグルメ番組である。なぜかは知らないのだが、この頃のテレビは料理番組というかグルメ番組など、食をテーマとしたものがどうも多くなっているように感じられる。政治や経済にニュース性を感じる視聴者が少なくなっているからなのか、それとも視聴者の興味がいわゆる「スター」による物珍しさというのに耐性ができてきたからなのか、テレビの傾向が少し料理の方向へ視点が移りつつあるように感じる。

 それはともかく、現在放映されている料理番組である。これまではどちらかというと、豪華食材や珍品を使った料理を紹介したり、エスニックな食文化を紹介するような番組が多かったような気がする。そうした番組が火をつけたからなのか、この頃は、地方や郷土の料理、近隣の家庭料理にまで芸能人が参加するようになってきた。

 そしてレポーターもどきの芸能人が、そうした料理にコメントする。そのときの表情たるや尋常ではない。

 ・ 目をカッと見開いたまま、感激のあまり声も出ない。
 ・ うっとりと目を閉じてしばし絶句、至福の境地に恍惚としてさまよっている。
 ・ 顔をクシャクシャにして、世の中にこれほど美味い物があったのかと、あたかも奇跡に遭遇したかのような顔つき。

 料理を称賛する表現も同様である。
 
 ・ 「あっさりとしていて濃厚」・・・一体何を言おうとしているのか。
 ・ 「盆と正月が一緒に来たようだ」・・・そんなに飢えた毎日を送っているのか。
 ・ 「取れたてで新鮮」・・・舌先で新鮮さが分るのだろうか。
 ・ 「こりこりしている」、「柔らかくてねっとり」・・・それと味覚とはどうつながるのだろうか。

 田舎の料理が不味いと言いたいのではない。家庭料理だって、スーパーから買った食材か、自宅の畑からとった野菜かはともかく、それほど珍しい材料が使われているとは思えない。だからその食材から、上に書いたような表情や表現を招くほどの、驚異の味が出せるとは思えない。

 もちろん中には、「不味い」料理だってあるだろう。だがそんな料理は決してテレビには出てこないと思う。だからと言って芸能人が感激のあまり絶句するような「驚異の美味しさ」が、現実に存在すること自体に私はどこか疑問を持っているのである。私にだって、「美味い」、「そこそこ美味い」、「まあまあいける味」、「美味しいね」・・・、そんな程度の違いはあるとは思っている。また、作ってくれた人や田舎のおばちゃんの手料理に、味以外の愛情や親しさや優しさなどを感じることがあって、それが味わいに影響するだろうことだって分らないではない。

 それでも芸能人の料理レポートの表情や表現は嘘だと思うのである。そんなに感動するほど、美味いはずはないと思っているのである。それはもしかしたら「各人の舌に、それほどの感度の違いはない」とする私の思いに偏見があるのかもしれない。「舌」はそれほど敏感な感覚器官ではないとの思い込みが先入観として存在しているのかもしれない。「私がそんなに美味しいと思ったことがない」ことを根拠として、「だから他人にもないはずだ」とどこかで嫉妬しているのかもしれない。

 それでも芸能人の料理に対する評価に、「ほどほど美味い」とか「まあまあの味だね」、更には「私にはそれほど美味しいとは思えない」などの言葉がまるで聞かれないのは少しおかしい。だから私は彼等の味に対する評価が嘘だと思っているのである。芸能人は、そもそもが嘘つきなのかもしれない。演じることで報酬を得ているのだから、本質的に「嘘を生業としている」のが芸能人なのかもしれない。

 だとするなら、「不味いもの」を「奇跡のように美味しい」と言ったところで、それは営業としての演技であり、特別に非難すべきことではないのかもしれない。ただ、それを理解しつつも、芸能人の「味に対する至福の顔」を料理番組のたびに見るにつけ、「ああ芸能人の毎日の食生活って、これほど貧しいものなのか」と皮肉に思ってしまうのである。

 「空腹に不味いものなし」は、私たちの実感でもある。料理に感動する芸能人を見るたびに、この人たちは「何日も飢えた生活をしていたのだろうか」、「不味いものばかり食べる貧弱な食生活が続いていたのだろか」と皮肉を込めて思ってしまうのである。

 それともそれは誤りで、テレビカメラという魔法の機械が、人の味覚という自然な反応に、計り知れぬ影響を与えているのだろうか。それも「若干の影響」程度の軽いものではなく、「劇的な変化」をもたらすまでの強大な影響を与えているのだろうか。
 最近は芸能人ばかりでなく、素人もこうした番組に出演するようになってきている。そしてこうした「感動的美味」の出番がそこここに拡散してきているようにも感じられる。

 食の問題は、つまるときろ「生きる」につながるものである。だとするなら舌の役割は、毒ではないか、食べられるかなどを見分けることにあったのではないだろうか。世界には飢えに苦しむ人が多数存在しているけれど、多くは飽食や栄養過多と隣り合わせている。今や食を「生きること」と結び付けて考える人はほとんどいなくなり、味は「食べられるかを見分ける」と言った役割から離れて、飽食という新たな進化へと向かっているのではないだろうか。そしてそれは私たちにとって望ましい方向なのだろうか。


                                     2017.7.28        佐々木利夫


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