これは私だけの勝手な思い込みである。そんなことに疑問を感じる自体が思い込みの弊害だと言われてしまったら、それまでのことである。

 実は私は、「金メダル」というのはオリンピックだけのものだと思っていたのである。世界のすべての国が参加しているわけではないし、各国のトップが必ず出場しているという保証もない。だから世界一というのは一種のフィクションなのかもしれない。それでもオリンピックは世界のトップを競う大会であり、そこでの優勝は少なくともその時点での世界一であり、金メダルはその象徴であると思い込んでいたのである。

 もちろんそこにジョークや便乗などがあったって構わない。幼稚園の運動会や発表会で、一等賞になった園児の首にダンポールを丸く切り取った台紙に金色の色紙を貼り付け、そして紐を結びつけた金メダルをかけることまでを否定するつもりはない。

 園児の首にかかった金メダルは、金メダルを授与したのではなく、それは「一生懸命頑張りましたね。ピカピカ光る金メダルぐらい頑張りましたね。まるで、オリンピック選手みたいに頑張ったね」の記念碑だと思うからである。その金メダルが贋物だという意味ではない。「本物の金メダルをあげたいくらい素晴らしい頑張りでした」の象徴だと思うからである。

 だが金メダルが「優勝」を示す代用品になってしまうと、金メダル本来の持つ「オリンピックで優勝した」との意味が失われてしまうように思えてならないのである。

 私は金メダルの発祥の経緯を知らない。もしかしたら「優勝者に金メダルを授与する」という表彰形態はオリンピックよりも先にあり、オリンピックがそうした既存のシステムを利用したのかもしれない。つまり金メダルの授与というシステムがオリンピックよりもを先行して、そうした慣習をオリンピックが採用再利用したのかもしれない。だから金メダルはオリンピックが独自に開発したオリジナルなシステムではないかもしれないということである。

 そんなことも知らないで、オリンピックの持つ金メダルの風習を勝手に崇高化し、いかにもそのシステムを他の競技が盗用したかのような言いかたは、金メダルの持つ歴史を無視するものだと非難されるかもしれない。

 それでもなお私は、金メダルとオリンピックをどうしても結び付けたいのである。金メダルが「一等賞」の別称として、社会的にも広まっているといわれるのなら、それはそれまでのことである。「金メダル」という名称のニュアンスが、一等賞の別称として社会に広く浸透しているのなら、それはそれで構わないのかもしれない。だが私にはそうは思えないのである。

 かつての職場やOB会の親睦行事に麻雀大会があった。点数をつけて優勝を競い、一位から順に表彰され賞品が渡されるのは定番であった。ただ、そのときの順位を表す名称が、「優勝」、「準優勝」、「第一位」、「第二位」・・・というものであった。なんと、一位とは実質三位を示していたのである。どうしてそんな名称になったのか分らないが、別に名称の呼び方によって賞品内容が変わるものではない。「優勝」はトップにふさわしい賞品であり、「第一位」はそれより低いランクの賞品だったからである。

 だとするなら、最優秀者を「優勝」と呼ぼうが「一等賞」と呼ぼうが、はたまた「金メダル」であるとか「世界一」、更には「最高」、「素晴らしい」などと呼ぼうが、そんなに目くじらを立てるまでのことはないだろうとも思う。

 先月、第8回冬季アジア大会と称するスポーツ大会が北海道で開催され、2月26日に終了した。スポーツにはこれと言って興味のない私なので、その内容についても、また競技結果についてもまるで興味がない。ただそこでの結果について、「日本勢は目標の20を上回る、今大会最多の27の金メダルを獲得した」とする新聞記事が載ったことで(2017.2.27 朝日新聞)、金メダルが単なる記念品であることを離れて、一位の別称になっていることが気になったのである。

 だからと言って、これまでのスポーツ大会のいくつが優勝者に「金メダル」と銘打った記念品を授与することでその功績を表彰していたかについて、具体的に調べみたわけではない。ただ、スポーツ大会に限られているような気はしているが、全国各地で開かれるマラソン大会から、スケートやジャンプ競技、そしてトラック競技や水泳競技などなどの大会にいたるまで、多くの大会でこの「金メダル」という言い回しが頻繁に使われていることに気づく。

 別に大会の主催者が、「金メダル」という表記を公式に使っているのではないかもしれない。もしかしたら新聞・テレビなどのメディアが一方的に、優勝つまり一等賞であることの代替表現として「金メダル」の呼称を使っているだけなのかもしれない。

 それでも、少なくとも私たちが耳にするという意味においてだけなのかもしれないけれど、「金メダル」の呼称は一等賞の代替用語として社会に広がってきているように思える。つまり、「金メダル」の用例が、オリンピックとは無関係になってきているのではないかということである。なんでもかんでも「一等賞は金メダル」になってしまっているのではないかと思ったのである。そこには金メダルに込められたオリンピック世界一のイメージはまるでなく、単なる一等賞の表彰と同じになっているのである。

 幼稚園児への金メダルなら、まだオリンピックの匂いがしているような気がする。それは、模造されたおもちゃの金メダルの中に、「オリンピックで世界一」のイメージが匂いとして込められているように思えるからである。

 そういえば、ノーベル賞も金メダルだったような気がする。だがノーベル賞は、「金メダル」としての呼称ではなく、「ノーベル賞」として確立している。ある賞にメダルを付与するような風習がどこまで広がっているのだろうか。スポーツ以外でも、芥川賞であるとか猿橋賞などなど、芸術や芸能や学術まで様々な賞が設けられている。それらの中で「金メダル」を記念品として授与するような風景はあるのだろうか。

 私の目につく範囲という意味でしかないが、どうしてスポーツだけが金メダルにこだわるのだろうか。もしかしたらこだわることそのものの中に、オリンピックが意識されているのかもしれない。だとすれば「金メダルという表記」そのものに、オリンピックの意味が込められているのかもしれない。

 それでも私は、この「金メダル」という言い方の広がりが、オリンピックの匂いを意識的に消していっているように思えてならない。それは単に匂いを消していってることを超えて、「金メダル」の持つイメージそのものを腐敗させていっているようにまで感じてならないのである。


                                     2017.3.10        佐々木利夫


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腐っていく金メダル