8月15日が72年前の終戦の日で、この日を中心に戦争をめぐる様々な思いが集中することは当然のことかも知れない。独立であるとか戦勝など、または日本のようにそれを終戦と呼ぶか敗戦と呼ぶのがふさわしいかはともかくとして、歴史を転換した日を何らかの形でその国の記念日として残そうとするのは、むしろ当たり前のことだといえよう。

 だからこの日を中心に新聞もテレビも特集を組み、読者や視聴者もその企画に参加することが多いことも当然のことだろう。だから戦争に関連した話題が多くなること自体に疑問はないのだが、例えば「平和」をめぐる様々な意見が、どうして現実から離れ、しかも抽象的な一方向だけからの意見に偏ってしまうのかが気になって仕方がない。

 これから紹介する発言は、幼い世代を含む若い世代の考えている「平和」に関する新聞投稿(2017.8月、朝日新聞)からの抜粋である。

 「・・・みんなが一つの意見に染まる社会は怖い。自由にモノが言える。それこそが平和なんだって思いました。・・・」(19歳、女性)

 「・・・戦争は自らの勘違いから始まり、平和も自らの心の持ちようから始まる。まずは自らの利益・損失だけにこだわらず、心を開き、『平和とは何だろう』と学ぶことが日本人に必要ではないだろうか。」(15歳、高校男子)

 「・・・テロにも理由がある。その理由を知り、テロをなくすには何が必要か、一人一人が少しでも考える。そんな風潮が広がれば、『平和』に一歩近づくことは十分可能であると、僕は信じていきたい。」(17歳、高校男子)

 「・・・今の日本は平和ではない、が私の意見だ。第一の理由は、いじめが絶えないから。・・・戦争中、工場で無理に働かされ毎日をつらく送ったことと、いじめはほとんど同じではないか。第二の理由は、人が人を殺す事件がなくならないから。殺し、傷つけるということは戦争の殺し合いと同じだと思う。・・・一人一人が傷つかないように、互いに気遣っていくことができた時、初めて日本に平和が訪れると私は思う。」(12歳、小学男子)

 「私が考える『平和』は、(次の)三つの世界が重なったことだと思う。一つ目は・・・兵器が存在せず、物事を決める時の方法は話し合いのみという状態だ。二つ目は貧富の差がなく、誰でも自由に意見を発せられる状況のこと。三つ目は、自然豊かな世界。・・・そして・・・実現するには、一つひとつの国の国民全員が協力しない限り、難しいだろう。・・・まず、人と人とがお互いに思いやりを持つことが求められると思う。」(14歳、中学男子)

 これらの思いが、子ども特有の未成熟な意見だとは思わない。それぞれが、真剣に世界の平和を思い、その実現のためにどうすべきかを自分なりに真剣に考え抜いていることが感じられる。

 でもほとんどの意見が「一人一人」の思いが大切だと言っていることに、どこか大きな錯覚があるように思えてならない。それは、「全員が平和を考えるなら、世界は平和になる」と言っているに過ぎないからである。つまり、世界の平和は構成員たる人類の全員が一致して平和を願い、その心の集約からなると言っているだけだからである。

 それはつまり、トートロギー、いわゆる同義反復にしか過ぎないように思う。人類の一人一人が揺るぎない平和の心を持つことで、世界は平和になる、そんなことは当たり前のことだからである。100人それぞれが1の心を持ったとき、1+1+1+1・・・・・・・=100になると言ってるだけにしか過ぎないからである。そうした平和はなるのであって、するのではないからである。

 その点、最初の19歳の意見は少し違っている。こんな風にして100になる世界は怖い、と言っているからである。それはつまり、多様な世界こそが理想だと言いたいのだろう。だが、そこにも矛盾がある。彼女の言う多様とは、恐らく「平和へ向かう心だけの多様性」なのだろうと思えるからである。それはつまり、多様性を望み認めつつも、その多様の中味はあらゆる方向への多様性ではなく、平和に向けた多様性だけに限定されているからである。

 それはつまり先ほどの1+1+・・・=100と、内容的には同じことを言っているに過ぎないのではないだろうか。確かに多様性とは、各人の意思が「1」に限定されるものではないことを意味しているのだろう。だがそれとてもやっばり、1+0.3+0.8+1.2+・・・=100を求めているに過ぎないと私には思える。彼女が思っている多様性の中には、たとえば「-1.2」や「-0.8」などの個々人は入っていないのではないかと思うのである。

 もちろんトータルで100になるのが平和だとするなら、マイナスよりもプラスが圧倒的に多ければ可能である。だがマイナスの意思も多様性の一つとして尊重すべきであるとか、ましてやトータルが「-100」になるような場合のあることなどは、彼女は決して考えていないのである。彼女の考える多様性とはその程度のものでしかないのである。

 だからこそ、「自由にモノが言える。それが平和なのだ」と言えるのである。彼女の思う「自由にモノが言える」ことの中には、「世界はアラーが決めたようになるべきであり、これに反する一切の考えは抹殺しても構わない」と言う自由は金輪際含まれていないのである。「核爆弾を持つことで自国民を守り抜く」であるとか、「アメリカさえ豊かになるなら他国には多少我慢してもらうしかない」などとのたもうことなどは、自由にモノが言える範囲には入らないのである。

 もっと極論を言うなら、平和を実現するためには戦争をしても構わない、私の利益のためなら世界が滅んだって構わない、私の愛が届くならストーカーをして相手を殺すことになっても構わない、・・・そんな「思い」は自由にモノが言える範疇にはそもそも入っていないのである。「平和のための心を持つべきであり」、そうした範囲内での多様性を彼女は言っているのであり、それはつまり「一人一人の平和を望む心の集合」を語る他の若い人たちの意見と少しも変わらないのである。

 この投稿を読んで、若者たちの意見がここまで似ているのは、もしかしたら親もしくは社会や政治の責任かもしれないと思った。それは「平和とは何か」、「平和を求めるというのはどういうことなのか」などについて、私たちがしっかりとした考えを若者に示していないからなのではないかと思ったのである。

 取り上げた投稿者のそれぞれが、平和を願う気持ちを十分に持っていることは疑いない。だが平和とは何かについて具体的に知らないことから、単純に「皆が平和を願うことだ」とか、「平和を願う心の集合が実現への道筋だ」くらいにしか、答を見つけられなかったのではないだろうか。

 こんな理屈を並べている私にも、「平和」とは何かについて、定義はおろか独善の見識さえも示す力はない。暴力を利用した平和というものがあるのか、誰かの犠牲の下に成立する平和というのは認められるのか、戦争という手段で平和を実現することは認めていいのか、平和の範囲は自国だけで他国にまで及ばなくてもいいのか、世界平和以外に例えば「日本だけの平和」というのは認められるのか、平和とは誰もが満足する世界なのか、不満分子がいたら平和ではないのか、平和と思う人の割合は四捨五入でいいのか、四捨された者は無視されていいのか、「平和における満足」とはどの範囲までを指すのか、食えることか、住居があることか、学校に行けることか、自前でテレビを持てることか、自宅を持つことか、正社員になれることか、年に一回くらい家族旅行ができることか、結婚できることか、難民にならない程度の生活ができることでいいのか、お釈迦様の住むような蓮の上の天国を実現することなのか、などなど・・・。

 平和もまた多様なのかもしれない。だとするなら全員一致、国民全部の平和、ましてや地球の平和などは、頭の中だけの空論にしか過ぎないのだろうか。とても一人一人が「自由にモノが言える」ことや、「人と人が互いに理解しあえること」くらいで平和が実現するほどたやすいものではないように思える。平和もまた昔からその実現を望みながら、中味を決められないまま混乱しているように思える。平和も結局は、「見果てぬ夢の中に埋没してしまう思い」だけのものなのだろうか。そもそも、平和とは何なのだろう。


                                     2017.8.24        佐々木利夫


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平和になるのか、するのか