いじめ防止対策促進法が施行されてから、間もなく4年になる。発生源泉からして、学校現場が対象の中心になるだろうことは容易に想像できる。その学校もいじめに対する感度が高くなり、いじめに対する臭いが少しでも感じられると、間髪を入れずに対応できるように臨戦態勢を整えている。

 ただその発想が、「子どもが嫌な思いをする」=「いじめではないか」の方程式が、世の中に蔓延しているように思える。そしてこの方程式をチェックするのは、常に「先生方」である。時に弁護士までがそこに介入するようになる。そうした場面が多いことを否定したいとは思わない。いじめは多くの場合、先生による救済が一番効果的だろうと思うからである。ただ、「なんでもかんでも先生が出ていく」という風潮にはどこか違和感が残る。大人が介入する以外に、子ども自身には独自の自浄能力など期待できないと、大人そのものが思い込んでいるからなのだろうか。

 ところでこれから書こうとしているのは、そうした違和感についてではない。いじめというのが、単に学校であることを超えて社会や国際に広がっているように思えることについてである。それはもちろん例えば「パワハラ」(パワーハラスメント)と呼ばれて、職場にまで広がっていることを言いたいのではない。職場などの範囲を超えて、いじめは既に国際化しているのではないかと思ったのである。

 いじめを定義することは、難しいのかもしれない。同じセクハラとされる行為だって、発信者と受信者の関係などで成立したりしなかったりするのと同じようなものだと思うからである。

 文科省では昭和61年度から「いじめ」を「自分より弱い者に対して、一方的に身体的・心理的攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの」と定義している。ただ、この定義だけでは必ずしも個別の案件に的確に対応できないと考えたのか、平成6年度から次のように改定した。

 いじめとは「@自分より弱い者に対して一方的に、A身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、B相手が深刻な苦痛を感じているもの」として定義そのものは変更しなかったものの、その運用として「個々の行為がいじめに当たるか否かの判断を表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うこと。」が追加された。

 しかしこれでも実情にそぐわないと判断したのか、平成18年度から「一方的に」、「継続的に」、「深刻な」とする文言を削除した。つまり、「いじめ」とは、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」とされたのである。

 更にいじめ防止対策促進法の施行に伴い、平成25年度から「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児生徒と一定の人間関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの」とされた。

 この平成25年度のものは、いかにも官僚的で分ったようで分らない文章になっているけれど、それだけいじめの定義が難しいことを示しているのかもしれない。私にしてみれば、最初に掲げた昭和61年度の定義だけでも、運用さえしっかり出来てさえいれば一番分りやすいような気がしている。大体が、「定義がしっかりしていないから「現実のいじめ」に対応できない」とする考え方のほうが、どちらかと言えば間違っているような気がする。

 いじめは現実にあり、それは児童生徒の問題だけではないと感じ始めたのは、それが大人社会にも、そして国同士にも拡大されているように思えてきたからである。

 私はそれを現在のアメリカと北朝鮮の対立に見る。アメリカのとっている行為は、まさに力に任せたいじめになっているように思えるからである。アメリカの行動を、一番分りやすい昭和61年度の文科省見解に即して考えてみよう。

 「自分より弱い者に対して」・・・、アメリカはまさしく巨大な牛車である。方や北朝鮮はこれに歯向かう蟷螂にも似た存在である。アメリカは北朝鮮を片手でひねりつぶすことなどたやすいくらいの力を持っている。

 「一方的に」・・・、アメリカにしてみれば対話に応じない北朝鮮こそが悪なのだから、決して一方的ではないと主張するかもしれない。だが、力任せに牛車の車輪を進めようとする御者のアメリカと、これに対抗して斧で歯向かおうとするカマキリとは、どちらが一方的だろうか。それともアメリカは北朝鮮が核開発やICBM(大陸間弾道弾)への準備をしていることをもって、対等だと説明したいのだろうか。

 「身体的・心理的な攻撃を継続的に加え」・・・、身体的と心理的とをどこで区別するのかは分らないけれど、自国の空母や潜水艦を相手国の領海近くを航行させ、偵察機を領空近くを飛行させるなどの行為は、私にしてみれば単なる圧力ではなく、一種の実力行使、つまり身体的な攻撃に匹敵しているような気がしてならな。そしてまさに世界の各国が行使している経済封鎖などは実力行使そのものであり、「いつでも戦闘行為に入れる用意がある」などとのアメリカの公言は、心理的な攻撃を既に超えているように思えてならない。

 「相手が深刻な苦痛を感じている」・・・、アメリカの行っている圧力は、相手の土下座を求める威嚇行為そのものである。苦痛を感じさせる行動そのものである。

 私には、アメリカの行為の全部が、いじめの定義にそっくり当てはまっていると感じている。つまり、アメリカは現実に北朝鮮をいじめているということである。

 私たちは、「いじめ」をどんなときも悪だと評価してきた。どんないじめも許してはいけないのだ、と理解してきた。そうした思いこそがどんな場合も正義につながるのだと確信してきた。だが、国際社会は違った評価をしているのである。力や言葉によるいじめを通じて相手を屈服させることの中に、世界の平和や安定が存在するのだと公言してはばからないのである。そして日本もその考えに全面的に同調し、ときに世界を煽ってさえいる。

 それを外交というのかもしれない。それが交渉の駆け引きと呼ばれるものなのかもしれない。だとするなら、戦争もまた駆け引きの一種であり、正義の戦争、必要悪の戦争、いじめだろうが嫌がらせだろうか「私の思いを押し通す」ために必要な行動のすべてが正義なのだと、私たちのルールを書き換えなければならないのだろうか。いじめられ孤立無援のかまきりはそんな時、一体とうすればいいのだろうか。「強いものには巻かれろ」は、国際社会が自認するルールなのだろうか。それとも、強者だけに通じる、強者ゆえの論理にしか過ぎないものなのだろうか。

 明後日の5日(日曜日)には、トランプ大統領が就任後始めて日本を訪問する。その後韓国、中国へも訪問する。恐らく北朝鮮問題も大きな議題になるのだろうが、いじめと外交圧力とはどこが違うのか、私のようなへそ曲がりにも分るような説明をしてほしいものである。


                                     2017.11.3        佐々木利夫


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いじめの国際化