およそ20万年ほど前に誕生したと言われていた人類の起原が、「30万年ほど」に延びるのではないかとする記事をつい最近読んだ(2017.6.8、朝日新聞)。ドイツのマックス・ブランク進化人類学研究所の研究チームの発表だと記されていた。

 人の寿命は歳を経て長くなりつつあるが、平均で100歳を超えるのはまだ先の話だろう。だから、そうした寿命と比べるなら、20万年も30万年もともに気の遠くなる長さではある。

 どこまでが猿人なり旧人で、どこから人類なりホモサピエンスと呼ばれるようになるのか、学術的にははっきりしているのだろうが、私にはまるで理解できていない。またそれを仮に人類30万年と呼んだところで、ゴリラやチンパンジーやクロマニヨン人などとそれほど違いのない生活を送っていた期間がほとんどだろう。私たちがどことなく「人間らしい生物」として理解できるような状態になったのは、恐らくここ数千年程度ではないかと感じている。

 他の生物を見るまでもなく、人類の発達もまた緩やかな変化を辿ったであろうことは容易に想像がつく。化石などから知られる人類と、例えば洞窟に描かれた絵や住居跡や石器などの遺跡から推察される人類とは大きな隔たりがある。特に、文化とか芸術や信仰などの面から考えられるような人類の歴史は、私の感覚でしかないけれど、せいぜい一万年を超えることはないような気がしている。

 ただそうは言っても、人類は30万年かけて現在の姿にまで進化してきたのだと学者は主張する。もちろんそれはホモサピエンスとして確立した時点からの時間であって、それ以前に数十億年という生命としての歴史があったことは疑いがない。

 そう思って今回の新聞記事を読んでみると、果たして現在「ホモサピエンスと呼ばれている種」とはいったい何なのだろうかと思ってしまう。海水から生まれたアミーバーのような原始生物が、現在生存もしくは99%が絶滅したとも言われる過去のあらゆる種のどこまで祖先なのか、必ずしも私がきちんと理解しているわけではない。

 それでも、種が多様に変化したその末裔に、人類もまた存在していることくらいは理解できる。その変化の経過を私たちは進化と呼び、あたかも現存する「人類としての種」が究極の姿であるかのように思っている。

 もちろん「進化」の意味を私がきちんと理解しているわけではない。ただ単に、私が思っている理想とする形態の生物に近づいていくことを、単純に「進化」と名づけているだけに過ぎないとも思う。こうして考えてみると、「変化と進化」を同一に感じるのは錯覚であって本来別物だと思ってしまう。

 もちろん、石器を作って狩りをしていた生活から、絵画や音楽や文芸など様々な芸術の分野を理解するようになってきた歴史、携帯電話やテレビや月や宇宙へ向かおうとするロケットの発明、更には人工知能と呼ばれる分野にまで届こうとしている人類の変化は、「進化」なのだと言えるのかもしれない。

 ただ私はそうしたことを、「進化」と呼んでいいのかが疑問なのである。確かにその変化は便利さへの追求であり、欲望を満足させることへの過程であることに違いはあるまい。だがそれとても単なる変化であり、もしくは環境への適応であっただけのことではないだろうか。例えばライオンが集団で狩りをする手法を数世代を経て身につけていったとしても、その変化はたまたま環境に適応した結果であったに過ぎないのではないかと思うのである。

 つまり、ライオンは「集団で狩りをする」ことに向かって変化し進化したのではなく、「単独で狩りをする」、「草原から離れて樹上の獲物を狙う」、「飢えても目の前に獲物が現れるまでひたすら待つ」、「体を小さくして粗食・飢餓に耐える」、場合によっては「草食化なり雑食化に体を変える」など、これ以外にもあるだろう様々な形態に変化した子孫を生み出し、ひたすら生き残るための手段を講じてきたのではないかと思うのである。

 そうした変化の中で、たまたま「集団で狩りをする行動」へと変化した種だけが生き残ったと考えるほうが妥当するのではないだろうか。孤独で狩りをする行動パターンに変化した種もいただろうが、数世代、数十世代を経て絶滅していったのだと思う。適者生存とは、変化の方向を示しているのではなく変化の結果と環境とのマッチングを指しているのではないだろうか。

 カンブリア紀(およそ5億数千万年前の地球)だけが生物の発祥のすべてではないだろうけれど、現在信じられている学説によれば多くの生物はこの期間に発生したと言われている。そして地球上に発生した種の96%とも、99%とも言われる種が絶滅への途を辿ったという。このことはまさに種は適応する方向へと進化したのではなく、ランダムに、そして方向性なく、無茶苦茶で支離滅裂に変化したことを示しているのではないだろうか。それは言葉を変えるなら、種は絶滅の方向へと変化していったということである。そうした中で偶然とも言える例外として、その時々の環境に適合したものだけが僅かに生き残ってきたと考えるべきだろう。

 さて、そうした種の中の一つである「人間」である。「人間」とても進化の果てに頂点として存在しているのではない。人類も様々に変化したけれど、ネアンデルタール人も北京原人も、そのほとんどが絶滅した。生き残ったのは私たちの祖先へと続く一種を残して、すべて絶滅したのである。私たちは、たまたま現在の地球環境に適応できる種として、かろうじて生き残っただけにしかに過ぎないのである。しかも私たち人類が生きて来た期間は、このエッセイで取り上げた記事でも分かるように僅か30万年でしかないのである。

 何をもって適応というかは難しいことかもしれない。それでも、一番分りやすいのは「地球環境への適応」であろうし、それはそのまま「種としての生存期間、存続期間」である。それは言葉を変えて言うなら「絶滅までの猶予期間」を指すとも言えるのではないだろうか。

 地球ができて、そこに生物がいつ発生したのか、そしてその生物が変化することなく今でも生存しているのか、私にはまるで分らない。例えば、生物が発生しそれが完全に絶滅する(地球は無生物になる)、そうした歴史が数回繰り返されて現在につながっているのか、それとも始めて発生した生物がそのまま変化しつつ生き残って現在へとつながっているのか、そんなことすらも分らない。

 ただ、私のイメージでしかないのだが、最初から変化せずに原型のまま生き延びてきた種はいないような気がしている。変化し、環境に適応した僅かの種だけが生き延びてきたことは認めていいけれど、種は絶滅、つまり行き止まりの変化を無数に繰り返してきたことだけは間違いないような気がする。

 恐竜は他種に分化したけれど、結局約1億6千万年を生きて絶滅した、三葉虫やアンモナイトはどれだけの期間、種を変えて生き続けてきたのだろうか。そうした数多の生物の歴史の中での、人類30万年である。ゼロに等しい期間でしかない。

 しかも人類は「戦争をなくする」、「地球環境を守る」、そんなことすら思うだけで実現できないでいる。人類は失敗作だったのだろうか。いやいや、恐らく生物に失敗作ということはありえないだろう。ありえないと言いつつ、もし許されるなら生物はすべて反語として失敗作だと言っていいのかもしれない。「すべての環境に適応できる単一の生物」という発想そのものが、生物であることと矛盾するような気がするからである。

 生き残りに対して生物は強靭なのかもしれない。沸騰する溶岩、酷寒の氷中、無酸素の空間、空気や光のない真空、アンモニアの海・・・、そんな中でも生物は発生するのかもしれない。そして発生した生物は、そうした環境が変わるごとに変化し、やがて絶滅を繰り返していくのだろう。

 ただ言えることは、そんな中に人類もいるのであり、それは「絶滅へと向かう種」として存在しているということである。そして決して生物の頂点にいるのでも、進化の果てに存在しているのでも、石器から携帯電話までを30万年で作り上げたのだから、将来は何でもできるようになる生物でもないのである。残りが数千年なのか数万年なのかは分らない。それでも間もなくこの宇宙から、我々が現在人類と呼んでいる「種」はやがて絶滅する、そんな確信めいた気持ちを、私は心のどこかに抱いているのである。


                                     2017.6.22        佐々木利夫


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人類〜生物としての成熟