「上司の命令に従わないとはけしからん、と考える人もいるかもしれない」と前置きしつつも、「しかし私は、これこそ立憲主義のお手本であると評価したい」と投稿者は新聞で断じる(2017.12.9 朝日、愛知県 高校教員、59歳男性)。

 「認めてはならない核攻撃」と題する投稿で、北朝鮮へ向けて仮にトランプ米大統領が核攻撃命令を下したとしても、「それが違法であればそのまま従うことはしない」と述べたアメリカ戦略軍のハイテン司令官の発言を賞賛するものであった。

 言ってることの意味が分からないというのではないけれど、投稿者がこの「違法であれば」という言葉を、どんな意味で使っているのかに私は疑問を感じてしまったのである。その内容は、「投稿者である私にとっての違法」、つまり彼が理解できる意味での違法にしか過ぎないのではないかと思ったのであった。

 世の中に「100パーセントの違法」などありえない、だからどんな判断であっても判断する者の独断にならざるを得ないのではないかなどと屁理屈を言いたいのではない。私には、司令官の発した「違法」の意味と、投稿者の理解している「違法」の意味とが、まるで異なっているように思えたのである。

 投稿者の感じている違法とは「核攻撃」そのもの、つまりどんな理屈が通ろうとも核を兵器として攻撃に利用することそのものを「違法」と理解しているのではないかということである。それに対し司令官の言う違法とは「核攻撃そのもの」を指しているのではなく、例えば手続き的に誤った命令であったり、大統領が個人的な好悪で発した指令などを意味しているのではないかと思えるからである。

 例えばアメリカ本土が他国から核攻撃を受けたような事態が発生し、アメリカ大統領がその権限に基づいて自らが統治するアメリカ戦略軍に対して、その攻撃国に対する核攻撃を命じたとする。その場合でも、司令官が「核攻撃そのものが違法と感じた」なら、その命令に服さないことが許されるのだろうか。

 投稿者はその司令官の命令違反を正しいものとして承認するだろう。でも本当にそうだろうか。これは核攻撃の違法性の問題ではない。組織における命令と服従のシステムに関する問題である。

 投稿者がどんなに優秀な職員であったとしても、私なら彼を採用しない。ましてや司令官という組織の長に彼を任命することなど決してない。なぜなら、指示に従うことは、組織としての基本的な機能であり、そうした機能なしに組織の存在や維持など考えられないからである。

 確かに「命令に従わない部下」の行動が、結果的に組織の維持や発展に寄与したという話しを聞いたことがないではない。でもそれは、映画や物語の世界だけのことなのではないだろうか。現実社会でそうした事例があったような話を、少なくとも私は聞いたことがない。

 それは「私が聞いたことがない」だけであって、「そんなことはない」と断定することはできないだろう。それでも、組織は「命令と服従」、「指示と従事」で成立しているのであり、しかもその手順が逆転したら組織そのものの維持ができなくなることくらい、多くの人の納得するところであろう。

 投稿者はこうした事実を、少なくとも「核攻撃」に関しては認めようとしない。核攻撃そのものが、どんな理由があろうとも「違法」なのである。そうした思いを抱くことはいい。投稿者がどんな思いを抱こうと、そしてそれがどんなに奇妙で独自の偏見であったとしても、それは彼の自由であり任意である。

 ただそうした思いを権威者の発する類似の意見を利用することで、あたかも「私の意見を補強するものだ」と流用することは許されないと思う。今回の投稿者の「違法」の判断基準と、アメリカ戦略軍の司令官の語る「違法」とは、全く異質なものなのである。だから、投稿者の意見を補強するとして司令官の判断を利用するのは、我田引水の一人よがりであり、間違いだと思うのである。投稿者の思い込み、場合によっては作為的な流用になっているのではないかと思うのである。

 自らが正しく上司の命令の方が誤っていると感じることは、意見の違う部下の感じる当たり前反応かもしれない。「私の意見がこんなに正しいのに」、「こんな立派な意見が通じないのは上司が無能であり無理解のせいだ」、「これほど当たり前のことがどうして通じないのか」・・・、そうした思いはどんな場合も、自らの意思に反した命令を受けた部下が抱く共通した感情である。

 そうした反発する思いが間違いだとは思わない。自らの意見を上司に進言し、説得しようと試みることだって大切なことである。だからといって、その指示なり命令に組織人として従わないのは、その反対する思いとは別に、間違った行動である。あってはならない反応である。「自分だけが正しい」と盲信する、自己中心の独断である。ましてやそうした思いを他者の権威を利用して補強しようとするなどは、他者の意見に対する冒涜である。

 核兵器の利用を認めるべきだと言っているのではない。核攻撃反対の意見が誤りだと主張したいのでもない。ただ、どんなに自らの意見に反するのだとしても、「組織人として、命令不服従」を正当化する理由にはならなのではないかと考えているのである。ましてやその不服従を、「立憲主義のお手本」などと賞賛するなどは言語道断であり、誤用である。たとえその命令が「核攻撃」だったとしても・・・である。


                                     2017.12.20        佐々木利夫


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上司の命令