今年のノーベル平和賞にICAN(International Campaign to Abolish Nucler Weapons、アイキャン)が選ばれ、数日前にその授賞式がスエーデンで行われた。そしてその受賞演説がICANの事務局長 と日本人被爆者でその協力者でもあるサーロー節子氏によってなされた。

 ノーベル平和賞にはその意味、目的、効果などについて様々な疑問が投げかけられているけれど、「平和とは何か」の意味が必ずしも世界の人々の間に定着していない以上、やむを得ないことなのかもしれない。それでも私にとって、それほどの違和感なくこの受賞を受け入れることができた。かつて日本人として当時総理大臣だった佐藤栄作が選ばれたときも、それはそれで違和感はなかった。

 それでも、こうしたイベントを100%承認した上でなお、どこか今年の平和賞受賞の演説には、どこか引っかかるものを感じてしまったのである。その感触は私だけかもしれないし、もしかしたら今年の受賞者の演説だけに限るものではないのかもしれない。それは先に述べた「平和の意味が必ずしも定まっていない」ことが、どこかで尾を引いているからなのかもしれないからである。

 サーロー節子氏の演説の全文は、新聞にも発表されている(例えば2017.12.12 朝日)。私は彼女の演説を批判したいのではない。事実が誇張されているなどと言いたいのでもない。むしろ、その内容を全面的に承認してもいいいとすら思っている。それでもなお気になるのは、彼女の演説が「核兵器廃絶」だけにあまりにもこだわり過ぎているように感じられる点についてであった。彼女はこう発言する。

 「私にとって彼(広島の原爆投下で死んだ4歳の甥)は、世界で今まさに核兵器によって脅かされているすべての罪なき子どもたちを代表しています」、「私たちは、大国と呼ばれる国々が私たちを核の夕暮れからさらに核の深夜へと無謀にも導いていこうとするする中で、恐れの中でただ無為に座していることを拒みます」、「私たち被曝者は、苦しみと、生き残るための、そして灰の中から生き返るための真の闘いを通じて、この世に終わりをもたらす核兵器について世界に警告しなければならないと確信しました」、・・・。

 彼女の発する演説のどの部分にも、核兵器の悲惨さや、人類のたどってきた愚かな道筋を示す言葉が並んでいる。それでも私には、どうして「核兵器」だけなのだろうという思いにとらわれてならないのである。発言の意味は分かる。でもここはノーベル平和賞の授賞式における受賞演説の場である。「ICAN」に与えられたのは平和賞としての栄誉である。ならば、平和の意味を、核兵器に限定することなくもう少し大きく捉えてほしかったと思う。

 ICANとは、国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」の略称である。このことはつまり、平和賞は「核兵器廃絶」に向けた運動に授与されたものだということかもしれない。この団体が、核兵器廃絶に具体的に寄与した実績に対する評価なのか、それとも今年の7月、国連本部で124カ国中122カ国という圧倒的多数で採択された「核兵器禁止条約」締結への貢献を評価するものなのか、それはともかくとしてICANが核兵器の廃絶を目的とした団体であることは明らかである。

 だとするなら、例えば宗教紛争の回避や解決、女性へのセクハラの防止、貧困や移民問題の解決などを主張することは、団体の設立趣旨からして難しいことは分る。「核兵器廃絶」を目的とした団体であり、その実績が認められたことによるノーベル賞受賞なのだとするなら、設立趣旨を何より第一に主張しアピールするのは当然かもしれない。

 それでも、「核兵器廃絶」だけに限定した彼女の演説は、どこか大切な思いの抜けた主張になっているように思えたのである。核兵器の存在は、決して諸悪の象徴としての意味を持つものではないと思えたからである。核兵器とは、単なる「武器の一種」にしか過ぎないように私には思えてならないからである。

 それとも「武器が悪であること」や「悪であることの程度」というのは、その武器の持つ殺傷能力の程度、つまり殺傷数の多寡により評価されるべきものなのだろうか。数人しか殺戮できない武器は、数千人数万人を一瞬にして殺戮することのできる武器よりも、悪の程度が軽いということなのだろうか。

 そうした評価が必ずしも分らないというのではない。ナイフよりは機関銃のほうが残酷な兵器であるとする考えが理解できないというのではない。だとするなら、そうした考えの延長に核兵器があるのだと考えてもいいのだろうか。

 私たちは得てして「数」を評価の対象にして、物事を判断することが多い。交通事故での死者は一人よりも三人や十人の方がニュースとして取り上げられることが多いだろう。ノーベル賞の受賞だって、今年の受賞者に日本人がゼロか三人かで日本のメディアの騒ぎようは異なるだろう。良いことにつけ悪いことにつけ、「数」は一つの評価の目安になることを否定はしない。

 だとするなら、「質」の違いは無視してもいいのだろうか。確かに核兵器は一瞬にして数万人、もしかしたら数十万、数百万人の殺戮を可能とする兵器かもしれない。だからと言ってそのこと、つまり一人しか殺戮できないような武器の存在を是認してもいい根拠になるとは思えないのである。ナイフや拳銃が、大砲よりも殺戮能力が小さい故をもって、「悪でない武器」になれるとは思えないのである。

 核兵器はもちろん「悪」である。それは彼女が演説の中で表現したように、「必要悪」であることを超え「絶対悪」にまで及んでいるのかもしれない。だからと言って拳銃や機関銃や爆弾の存在を、「核兵器」の持っている殺戮能力の範疇や程度から比較して、悪の範囲から除外してもいい、もしくは「必要悪の範疇に含めてもいい」という理屈にはなり得ないと思う。

 核兵の廃絶を訴えることが無意味だとは思わない。だが、現実に世界中の子どもに恐怖や飢えを与えているのは、核兵器ではない。確かに広島、長崎では子どもを含む多くの人命が失われた。また、核兵器開発のための実験などで、多くの人命が失われたことも事実だろう。

 それでも今餓えに瀕しているのは、そして命の危機に直面しているのは、テロリストが腹に巻いた時限爆弾におびえる子どもたちであり、人身売買の商品として誘拐された少女たちであり、居場所を求めて世界中を流浪するあてどなき難民の群れなのである。「平和」の意味を、問いかけることすら無意味な現実がここにあるのである。そしてその背景には、核兵器よりももっと現実的で過酷な機関銃や爆弾の存在、政治の不在などがあるのである。

 こんなことを言ってしまうと顰蹙を買うかもしれないし、せっかくのノーベル賞の賞賛に水を差すことになるかも知れない。それでも私は、核兵器廃絶の運動を時々こんな風に思ってしまうことがあるのである。だからと言って、決して核兵器の悲惨さを軽んじているつもりはないのだが・・・。

 「核兵器廃絶も大切だけれど、その前にしなければならないことがほかにあるんじゃない」、「銃規制を放置しておいて、何が核兵器廃絶だ」、「できることなのに、そんな小さいことすら実行しようとしないまま、核兵器廃絶なんぞという無茶苦茶大きな壁に歯向かうんじゃないよ」、「それとも実現できないこと、そして仮に失敗してもその失敗を世界が責めることなどないことを承知の上で、自らが傷つくことのないように、ことさらに大きな問題提起をしているのかい」。


                                     2017.11.16        佐々木利夫


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核兵器の悪