「神は死んだ」と言ったのはニーチェだけれど、そもそも神の存在を信じられないでいる私にとってこの言葉は、どちらかというとかなりぺダンチック(衒学的)な意味を持たせて使うことが多い。それはつまり一種の己の偽装であり、そこには信じていない神をあたかも存在しているかのように扱うことへの抵抗が含まれているのかもしれない。

 だからと言って、神を信じている人たちが現に多数存在していることを否定することはできない。そこでついつい「神は死んだ」という言い回しで、間接的にその存在を否定しようとするものであり、そう表現することであたかも「神は存在していた」にもかかわらず死んだ、と擬制できる効果を狙ったともいえる。

 だからニーチェの言う神の死と、私が知ったかぶりで振り回している神の死とは、表現としては似ているけれどまったく異なるものであり、ニィチエに便乗した一種の剽窃だといえるかもしれない。

 ただ、私が神の存在を信じられないでいると言いながらも、ならば不存在を確信しているかと問われるなら、それにはどこか逡巡を感じるのも事実なのである。物理的な意味での神が、存在しないだろうとは思っている。だから、試験管に神を封じ込め、物証として人々の目にさらすような意味でその存在を示すことはできないだろうことは確信している。

 だからと言って、試験管に閉じ込められて白日の下にさられるものだけが「真実であり、事実なのだ」とも、断言できないような気がしてならない。

 こんな場面に折衷案などあり得ないとは思っているのだが、私の抱いた思いの一つに「神の不在」という意識があった。「不在」と「不存在」とはまるで違う。「不在」は存在しているけれど「ここにはいない」、「今はいない」という背景を持っている。だから、「そもそも存在していない」(つまり不存在)とはまるで異なる考えだと思うのである。

 だとするなら、「不在」とは「存在」を前提にしているのかと問われるなら、それもどこか違うような気がしている。だから「神は死んだ」とは存在からの消滅を意味し、その結果として不存在へと推移したことを擬制したいのかもしれない。それでは「不在」とは何だろうか。

 そこに私は現代の宗教に対する人々の関わりを見るような気がしている。私は神の存在とは神としての力の大きさを示す指標であり、それは一種の「信仰の総和」ではないかと擬制的かも知れないけれど思っているのである。実体的に神の存在があるというのではなく、「人が信じることの足し算の結果」が神の存在に通じているのではないかということである。

 神をプレパラートに封じ込めて顕微鏡で示せるのならば、たとえそれが赤痢菌一匹というか一つの細胞であったとしても、それはそれで一つの「もの」として客観的に証明することができるだろう。存在が示されるのなら、その固まりがたとえ一片の細胞であろうが数億のコロニーであろうが、「存在としての証明」はそこで終わることになる。私は神をそういうものだと言いたいのではない、「信仰の総和」が形作っているものなのだと言いたいだけなのである。

 ならばどこまで総和が大きくなったら神と認められるようになるのか、と問いかけられそうである。例えば「私の信じている神」が、仮に世界でたった一人私だけの信仰対象でしかないとする。そうするとその神は「私にとってだけの神」でしかないことになる。そうしたとき、私自身はその対象を神と呼ぶだろうけれど、他者は誰も神とは評価しないだろう。それでもそれは客観的には「神」であり、「神」としての存在理由があると言えるのだろうか。

 「神」もまた程度の問題なのかと、つくづく私のいつもながらの思考過程の単純さに嫌気がさしてくる。だが、そうした「私一人が信じている神」と、例えばキリスト教やイスラム教などの神とを対比してみると、その違いがはっきりと分るような気がする。私の神には私を救う力はあるかもしれないが、他者を救う力はないのである。仮に他者を救う力があったとしても、信じてもいない他者が私の神の存在に気づくことなどないだろう。

 また逆に、「信仰は身の裡にだけある」と考えることもできる。そうしたとき神は逆説的になるかもしれないけれど、例えばキリスト者と神は一対一になる。そうした状態と、「私の神」、「私だけが信じている神」とキリストの神との違いはどこにあるのだろうか。

 「神の存在とは信仰の総和であり、それが力なのだ」と書いた。ならば「神の力」とは何だろう。奇跡を起こす力なのか、防衛隊を作って信仰を妨害する他からの迫害を防ぐ力なのか、それとも宣教師を育てて己の神の存在を信じていない者たちへと勢力を拡大させていく増殖を願う力なのか、政治を動かす力なのか、世界の宗教を統一して我が神を唯一神へと変革させていくための力なのか、それとも場合によっては信じない者を罰し抹殺してしまうことまでをも含めた力なのだろうか・・・。

 そもそも、果たして神に力は必要なのだろうか。力を持つことで、神は間違った道筋を辿ってきたような気がしないでもない。力を持たせたことが逆に、神や宗教そのものを歪めてしまったことはないだろうか。そうした意味で今の時代、私は力による宗教だけが野放図に巨大化し、そうした中で神は逆に不在をかこっているように思えてならない。

 日本書紀によれば、天照大神(アマテラスオミカミ)は岩戸に隠れ、人々の前から姿を消したという。それと同じように、神もまた現代では私たちの前から姿を消してしまっているのではないだろうか。どうすれば岩戸の扉を開いて、再び私たちの前に姿を現してくれるのだろうか。天手力雄神(タヂカラオノミコト)の力まかせの腕力に頼むしか開く術はないのだろうか。それとも信仰もしくは「信じる力」の復活を願うことの中に、多少なりとも解決の糸口が見つかるのだろうか。それとも神は不在なのではなく、私たち自身が岩戸の中に幽閉してしまっているのだろうか。


                                     2017.9.9        佐々木利夫


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神は死んだのか