世の中、いたるところに自己責任が溢れている。国民にしろ市民にしろ、はたまた会社や家庭内における私人にしろ、個人が個としての権利や希望を主張しその尊厳を認めよと声を上げる時代がきている。そのことはそうした主張の裏返しとして、その主張に伴う結果についての責任がついて回るものだと考えてもいいだろう。

 自己責任は、「自らが選択した」という場面と着かず離れず一体のものとして私たちにつきまとっている。それはそのまま、自らが「その選択を自らの意思により決定した」ことを意味している。選択するということは、数ある選択肢の中から一つを選ぶことである。その「選ぶこと」の中に自己責任という反対給付が、まさに表裏一体のものとして付きまとってくるのである。

 選択にいたる経緯は簡単である。「@いくつかの選択肢がある(呈示される)」→「Aその中から一つを選ぶ(もしくは選ぶように求められる)」→「B選択肢のそれぞれについて理解する」→「Cそれぞれに点数を付与する」→「D高得点のついた選択肢を最良のものとして決定する」である。

 こうした自己決定に至る経過を見ている限り、そこに自己責任を付与することは何の問題もないように思える。自分が選んだ結果に自らが責任を負うのは、社会生活を営んでいる上で至極当然のことだと思えるからである。

 でも本当にそうだろうか。まず@の複数の選択肢が示される場面を考えてみよう。果たしてその選択肢は公平に、しかも網羅的に示されている保証はあるのだろうか。確かに目の前には、いくつかの選択肢が示されている。だが本当にその選択肢は漏れなくすべて示されているのだろうか。呈示する側にとって有利な選択肢のみが示され、呈示される者に有利もしくは大きな利益をもたらすような選択肢は始めから除外されているような恐れはないのだろうか。

 相手に有利な選択肢のみが、最初から呈示されているのだとしたなら、そしてそのことに受けるほうが気づかなかったとしたなら、それは気づかなかった側の自己責任なのだろうか。それとも意図的に呈示しなかった側の責任なのだろうか。

 恐らく気づかなかった側が悪いということになるのかもしれない。呈示されなかった選択肢に気づくだけの知識も能力もなく、呈示されたもの以外に選択肢はないのだと思い込んでしまった側の責任ということにされる可能性は十分にある。

 しかし、自己責任が問題となるようなケースにおける選択肢の呈示は、ほとんどが力関係の強い側から弱い側へなされる場合が多い。自己責任の発生する要件は、互いが当事者として対等に契約する場面であることが予定されているはずである。だがそれにもかかわらず、現実は自己責任を問われる側がいつも弱者であることが余りにも多すぎる。

 責任の当事者は、互いに責任を共有できる者として対等である。これが自己責任の持つ当然の仕組みであろう。だが、そんな場面が本当に存在するのだろうか。自己責任を示す書面に署名するとき、仮に自己に有利な他の選択肢が存在していたとしても、それを相手に示すだけの知識と能力と勇気と迫力が弱者の側に立つ私にどこまであるだろうか。

 Aの選択を求められる場面も同様である。医師から手術で死亡する危険があると言われて、その手術の同意書への書名を求められる。そのとき、それに対する署名拒否の効果は、医師から「それなら手術しない」と宣言されるだけの結果しか招かない。手術しないと死亡する、もしくは治癒しないと医者から宣告されたとき、その同意書に署名することは選択したといえるのだろうか。

 Bの選択肢の内容を理解することにも力関係が支配している。専門家で知識もある医者や弁護士や例えば税理士などからいくつかの選択肢を示されたとき、仮にその選択肢の呈示が十分な説明の下になされたとしても、その内容を私がきちんと理解できなかったとしたら、その呈示された選択肢、更にはその選択肢からの選択はどんな意味を持つのだろうか。

 自己責任に至る経過について@からDまで前述した。だが実質はBまでで終わってしまうのかもしれない。Cの点数付与とDの高得点の選択は、@〜Bまでの中に網羅されてしまっているような気がするからである。互いの力関係の違いによって自己意思以外の方向に選択が曲げられ、知識不足や能力不足のせいで間違った採点をしてしまう場合がきわめて強いからである。そしてそうした信頼できない採点に基づいた答を選択することになってしまう。

 そしてもう一つ、納得できなくとも選択しなければならない場面がある。示された選択肢以外に、明らかに望ましい途があるにも関わらずその途が選択肢の中に示されていない場合である。しかも呈示された選択肢の中から半ば強制的に選ばなければならないのだとしたら、どうすればいいのだろうか。

 今朝(2017.115)の朝日新聞に、新刊として「『マラス』暴力に支配される少年たち」(工藤律子、集英社)という本が紹介されていた。ある国のある村の青年が苦境から抜け出すには「マラス」という暴力団に入るしかないという話であった。飢えかギャングか、死か難民か、自死か絶望の毎日か・・・・・、選択肢とすら言えない選択肢を呈示され、その中から選ぶことを強要される世の中の仕組みは、世界にいくらでも存在している。そんな限られた選択肢の中から人は選択しなければならない。自力で選択する。自らの意思で選択する。なぜか、どうしてなのか。選択しないという途すらも残されていないからだ。

 私には、自己責任という「責任」を相手に負わすことが、契約当事者でありかつ強者、もしくは社会や国や無関心を装う人々などの一方的な責任回避に使われいるだけにしか過ぎないように思えてならない。自らの意思で選択したという意味において、自己責任はまさに正論であろう。だが、自己責任に表れてくる最大の罪過は、身勝手な強者の責任回避に利用されるということではないだろうか。危険負担の責任を逃れる手段として、強者の側からこの自己責任論が一方的に乱発され続けるのである。

 金融取引、医師による手術や検査の説明と同意、選挙の投票、地震や豪雨などの災害からの避難指示や対策などなど、自己責任が問われる場面は数限りなく存在する。時に専門用語で解説され、時に死と引き換えの命令をされ、時に膨大な手続きを示され、時に錯覚を利用される。

 それもこれも「あなたが選択した結果であり」、だから「自己責任である」とされてしまうことだろう。だが美味しいと思って買ったケーキがそれほどでもなかったという程度の自己責任ならまだしも、命や根こそぎの財産にまで影響を与えてしまうような自己責任には、私はどうしても抵抗がある。

 これは、決して弱者の責任逃れを正当化したいと思ってのことではない。本来自己責任とは、一方が他方にきちんと理解できるように説明し、しかも網羅的に呈示された選択肢の中から自由意思で選択できる環境を整えてこそ成立する概念ではないかと思うからである。

 日本にはそもそも契約という慣習が、極端に少なかった。「黙って俺についてこい」、「俺の目を見ろ、何にも言うな」が、信頼という名に隠れて弱者の主張を沈黙させることになったからである。もちろんそうした発信をした「俺」にしたところで、相手に対して沈黙を要求した見返りとしてそれなりの責任を持つことが当然に要求されていたことだろう。場合によってはその要求は任侠とか暗黙の責任として発言者を拘束する場面もあっただろう。

 だがその強者に対する責任は、単に発言者たる強者の一方的な自己満足の範囲に限られていた。仮に相手を思いやったと言ったところで、それは強者の思い込みの範囲でしかない。だからそうした契約というか了解の効果は、結局強者の自己満足の範囲に止まり、対等な立場を維持するような場面には程遠かった。

 しかもこうした立場の違いによる契約に対して、弱者は反論できないことになる。なぜなら、相手の目を見ているだけで何にも言わなかったからである。白紙の委任状を、信頼という名の下に相手に黙って渡してしまったからである。そしてその信頼という名に裏打ちされた委任状には、たった一つ太々と大きな文字が誰にも見えるようにはっきりと書かれていた。その文字こそが「自己責任」だったのである。

 それを白紙委任というか、信頼というか、はたまた了解とか同意と呼ぶかはそれほど問題ではない。弱者は様々な形で、結果的に自己責任という陥穽(わな)に落ちることになったのである。落ち込んだのかもしれない。自己責任はまさに字義のとおり自己が責任を引き受けることである。その自己責任の陥穽に落ち込んだ弱者を、強者は「弱者の自己責任」という切り札を手に、悠然と高みから眺めることができるのである。それこそが自己責任の世界なのである。


                                     2017.1.15    佐々木利夫


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自己責任という名の陥穽