兵士の輸送船ではない。女性と子どもを優先して引揚させたことから、乗っていたのはほとんどが非戦闘員であり、そのことがこの話に一層の悲劇性を加えることになった。つまり、「戦争が終結しているにもかかわらず、無差別に罪なき乗客を殺害した卑劣極まるソ連軍」、これが番組を通した流れである。

 その放送を見ていて、私の認識とは少し違うなと感じてしまった。確かに乗船していたのは女性や子どもが多かったことは事実のようである。また、ソ連軍が三船に爆撃を加えたことも事実であるらしい。しかも、攻撃された日は、日本が無条件降伏しポツダム宣言の受諾を宣言した8月15日を一週間も過ぎた8月22日であった。ポツダム宣言の受諾にはソ連のスターリンも了解していたとされている。

 こうした点を並べる限り、この番組の編集意図に何の問題もないように思える。まさに「悪逆非道のソ連」との烙印は、免れ得ないように思える。もっとも、ソ連(現在のロシア)はこうした事実を現在でも否定しているらしいので、歴史的にどこまでが正しいのかについての私の知識は極めて貧弱なものである。公式にはこの潜水艦は国籍不明とされている。それでも、こうした不確実性を認めた上でもなお、番組の編集は一方的であるように思えたのである。

 それは、この事件を「終戦後」と断定している点である。確かにこの事件は8月22日に起きている。既に8月15日に戦争は終わっているのだし、そのことをソ連も了解していたではないかとの意見は当然に出てくるであろう。敗戦により、それまで樺太に居住していた日本人が北海道へと引揚げてくることは当然ではないか、と考えるのもまた理解できる話である。

 ここからは私の勝手な解釈になる。私の知るところでは、樺太ではこの第二次世界大戦はまだ終わっていなかったのである。確かに公式的にはポツダム宣言受諾により、日本は無条件降伏をした。だがこの戦争を実行していた大本営の意見は、必ずしも統一されていなかったのである。

 もちろん天皇による「終戦の詔勅」をめぐり、本土決戦を叫ぶ一部軍人との間に確執はあったし、玉音放送の中止を求めて戦争継続に固執する者たちによる革命的な動きさえあった。それでもこの玉音放送とポツダム宣言受諾によって、日本は戦争を終結させ一応の安定を得たのである。

 ところが、樺太だけは違ったのである。大本営は戦争終結を当然知りながら、樺太の軍司令部へは8月16日、札幌の師団から「樺太を死守せよ」との電報による命令を下したのである。戦争は既に終わっているにもかかわらず、樺太での戦争はまだ続いていたのである。

 戦争が終わったこと、そして樺太がソ連領となったことは、日本中の誰もがそしてソ連も知っていた(はずである)。終戦の事実を樺太の軍部がどこまで知っていたのかは諸説ある。停電で玉音放送が聞けなかったとの話もあるし、放送の音声が聞き取りにくく、戦争が終わったとする正確な情報が各人に伝わらなかったとの話もある。

 だが確実に「樺太を死守せよ」のメッセージだけは樺太軍に届いていたのである。死守とは、まさに玉砕(全滅)してでも樺太の地をソ連に渡すなという命令であり、軍隊にとって服従すること以外の選択肢などありえない。樺太に残された日本の軍隊は、当然それに沿って行動したのである。

 場所も地名も分らないけれど、戦争が終わり自国の領土になったと解したソ連軍は、それまで日本の領土だった樺太へ侵攻してくる。戦争の終わったことを信じたソ連軍は、無防備で樺太へ上陸する。その無防備なソ連軍に対して、樺太軍(あえて日本軍とは呼ばない)は、まさにお祭りの射的ゲームの標的を狙うように無差別に銃弾を打ち込んだのである。

 寝耳に水の攻撃を受けたソ連軍も、撃たれたままではいなかったことだろう。しかし数分か数時間かは知らないけれど、樺太軍はソ連軍をおもちゃを狙うように無抵抗な兵隊を一方的に銃撃したのである。そしてその時を境に、日ソは「戦争は終わっていない状態」に移行したのである。「終わった戦争」のはずが、「まだ終わっていない戦争」に変わってしまったのである。

 だからと言って、私はソ連軍の行動を容認したいというのではない。仮にこの三船攻撃がソ連潜水艦によるものだとしても、非は双方にあったのではないかと私は思い、いやむしろ日本の非のほうが大きいのではないかとさえ思っているのである。確かに日本には罪のない引揚者が殺害されたという恨みつらみはあるだろう。それを単純に「戦争なんだから」と割り切るつもりはない。ましてや終戦後に起きた事件なのだからなお更である。

 だが内容を見てみると、確かに仕掛け人は樺太軍であるが、背景に札幌師団更には大本営の意思があったことは明白であるように思えてならない。樺太軍の意思は分らない。だが、少なくとも戦争終結を知る者からの命令で樺太軍はソ連軍目がけて攻撃を仕掛けたのである。この攻撃を単なる口実にしてソ連軍が日本軍への攻撃を再開したのかどうか、そこまでの知識はない。それでもソ連軍が日本へ反撃するきっかけにはなったことは明らかである。

 札幌師団が樺太死守を命じた背景には、ソ連による北海道分割要求が見え隠れしていたことがあると言われている。一つの地域を分割して統治する事例は、歴史上も現在もそれほど珍しくはない。東西ドイツ、南北スーダンなどなど、植民地政策も含めて世界に「中間をとって互いに領土を分けあう」みたいな折衷案はいたるところに見ることができる。

 北海道もまたそうした渦中にあったと言われている。どんな線引きが計画されていたかは知らないけれど、稚内から襟裳岬あたりまで南北に線引きし、東側はソ連、西側は日本の領土として残すような案もあったと聞いている。もしかしたらそうした線引きの残滓が、現在の北方領土問題にまで尾をひいているのかもしれない。

 当時の大本営なり札幌師団が、北海道を分割することなど到底容認できないと考え、それが「樺太死守」につながったのかもしれない。樺太を日本領土して残すこと、もしくはとりあえず樺太を確保しておき、それと引き換えに北海道を残すことなどを軍部は考えたのかもしれない。

 だからと言って世界に向けて戦争終了を宣言しておきながら、舌の根も乾かないうちに当事者国の一つに攻撃を仕掛けることの正当性を、そこに認めることはできないだろう。無条件降伏の敗戦国として、外交力のほとんどを失った日本にとって、ほかに選択肢はなかったという言い訳がどこからか聞こえてくるような気がする。それでもそうした選択は間違いであり、少なくとも樺太を渡さないために戦争を再開するような無謀な選択を認めることなどできないと、私は思っているのである。


                                     2017.9.1        佐々木利夫


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樺太引揚船沈没
 8月25日に放映されたNHK北海道が制作した「クローズアップ北海道」は、「三船遭難事件から72年」がタイトルだった。終戦の昭和20年8月15日から7日を過ぎた8月22日、樺太から北海道へと大勢の引き揚者を乗せた三隻(小笠原丸、第二新興丸、泰東丸)が北海道留萌沖を航行していた。そこへ突如としてソ連の潜水艦二隻があらわれ、引揚船を攻撃しはじめた。そして二隻を沈没させ一隻を大破させた。死者数は1708名を超えると伝えられ、その多くは婦女子と老人だったと言われている。