こんなこと突き詰めて考えたことなどほとんどないから、信じるにしろ信じないにしろ中途半端であることは否定できない。だが、どちらかというと私は科学系、そして理科系に属する人生を送ってきたと自負しているから、物質としての「心」であるとか「魂」の存在は信じていない。ならば、こうしたこころや魂は荒唐無稽な創作なのかと問われるなら、それにも真っ向からは否定できないような気もしている。

 21グラムだか24グラムと題した映画があると、以前に聞いたことがある。この重さがいわゆる「魂」の重さなのだとするテーマをめぐる物語であるらしい。なんでもある科学者が人の死の前後で測定した結果の数値だとも聞いたことがある。その後とんとこの話がどうなったか聞いたことがないので、恐らく一人の科学者の思い込みか独断だったのかもしれない。

 仮に、重さを持つ何らかの物質として試験管に保存された心や魂の存在を否定したとしても、心や魂の存在そのものを否定できるかと問われるなら、ことはそれほど単純ではない。「心がある」、「魂がある」という感覚そのものは無視できないように思えるからである。

 「心はあると思うか」、「魂の存在を信じるか」と問いかけたなら、多くの人の答えは肯定に傾くだろう。心や魂を現実に表示したり証明したりはできないかもしれないけれど、「あると信じる」ことについては恐らく多数の人が承認することだろう。

 私にも例えば「畏れ」のような、「人智を超えた何か」を感じることがないとは言えない。それを神と呼ぶか仏と呼ぶかはたまた創造主や宇宙人と名づけるかはともかく、そうした一種の「人間を超えた存在」を感じた経験は私にもある。例えば宇宙を思い描いたとき、漆黒の闇に瞬く星空を見上げたとき、更には打ちひしがれた状況にあるときにふと閃いた生きる指針みたいな思いやヒントを感じたときなどに、「人間の思いを超えた存在」があるのだと素直に感じることがある。

 それでも目に見える形として「心」を表すことはできない。「あるとは思うけれど、示すことはできない」、これが「心」なり「魂」と呼ばれるものである。

 こうしたジレンマの中で、一つの考え方がある。心とは「作用」だとする思いである。例えばある景色が美しいと感じるとき、その「美しい」はある人にとってはそうだろうけれどそう感じないひともいるだろうことは容易に納得できる。好きだ、嫌いだ、辛い、悲しい、疲れた、苦しいなどなど、人が己の感情の中で作り上げる様々は、そのほとんどが計測不能であり、他者に物理的に示すことはできない。

 「痛みを五段階でいうと今の痛みはどのくらいですか」と聞かれて、「1」とか「4」とかを答えたとしても、聞いた本人はちっとも痛くはない。もちろん相手が痛いと思っていること、そして本当に痛いのだろうとの想像はできる。ただそれとても想像であって、かつて痛かった虫歯の記憶を思い出してなんとなく比較するだけで、痛みそのものが再現されるわけてはない。

 「心」や「魂」の存在が感じられる場面の多くは、感情に結びついている。ある状況を「可哀想だ」とおもう感情を、私たちは「心がある」と感じることの根拠にしているように思える。ならば「感じる」ことの本質は少なくとも「見ること」や「聞くこと」などの五感そのものの反応なのではなく、そうした情報を得た「脳」の機能的反応だと言えよう。

 「心」をハートと呼び、ハートは「心臓」を意味して胸の奥深くに内蔵として存在しているけれど、心臓そのものは単なる血液の循環機能を持つポンプでしかない。感情のほとんど(恐らくすべて)はハートではなく、脳の反応によるものなのだろう。

 映画を見て感動する、肉親の死に遭遇して悲嘆にくれるなどなど、そうした様々を私たちは心があることの証しとして承認する。でもそれは一種の「状況」であって、「心」そのものではない。

 いま「アルツハイマー ある愛の記録 アン・デヴィッドソン 新潮社」を読んでいる。59歳になった夫の記憶がどんどん消えていく52歳の妻の日々の記録である。読んでいくにつれ、夫の心そのものが日々壊れていくように感じられる。そして「心」とは「記憶」そのものなのかもしれないと思うようになってくる。認知症の夫の日常は、まさに「記憶がなくなっていく」過程であり、「記憶がなくなっていく」そのことが妻との会話や触れあいを含む「心」を失っていくことと同義であるように思えてならない。

 もちろん、「心」はその人個人のものなのだろうから、病気によって会話や身振りなどを通じた相手への伝達能力を失いつつあるからと言って、それはコミュニケーション手段の喪失であって心の喪失ではないとする理屈付けは可能であろう。だが、「存在として示せず、伝えることすらできない心」というものを、果たして「心」と呼んでいいものなのだろうか。

 こう考えてくると、「心」や「魂」というのは、「記憶」を基本として他者に伝えることのできる作用として認識してもいいのではないだうか。心とは、物質とは異質の喜怒哀楽を示すことなのかもしれないが、「心とは何か」の答を誰も示そうとはしてくれない。

 こんなことを考えたのは、心を脳の一作用だとするなら、それはその人の持つ様々な記憶の連係による作用だと考えざるを得ないのではないかと思ったからである。そしてそうした思いはそのまま、人の消滅である死とともに脳は機能を停止してしまうのだから、同時に心もまた消滅してしまうことを意味している。

 心や魂を脳の機能として存在しているとする考えは、脳と心は一体のものであり、分離して一種の存在として示すことはできないということである。死と共に心は消え、魂も存在しなくなる、これが生物の持つ心や魂の意味なのである。

 だとするなら、記憶が残されている限り心や魂もまた存続すると考えていいのだろうか。脳に蓄えられた記憶の相互作用として「心」が生まれるのなら、コンピュータの発達によって人の記憶もまた人間の能力を超えるほどにも保存することができるようになりつつある現在、心もまた「記憶装置」に内在する機能として永久に保存可能になるのだろうか。

 心や魂が脳や肉体から分離された存在として認識できるとは思えないと書いた。それは言い換えると、先に述べた「魂は21グラムである」という理屈を信じないということである。ところで他方、記憶を様々につなぎ合わせることによって「心を作り出すことができる」という説もにわかには信じがたいものがある。赤ん坊には心はなく、幼児の心は不完全で、成年の心は最高潮であり、老人は歳をとるにつれて痴呆症にでもならない限り完璧な心に近づいていく、そんな考えはむしろ荒唐無稽にも思える。そしてメモリーとそれら相互の接続が心なのだとする考えには、少なくとも今の私にはついていけない。

 記憶を単にかき混ぜたりつないだりするだけでなく、心にはそこに電気ショックを与えるような何らかのきっかけが必要であるように思えてならない。電気ショックとはまさに物理現象である。計量可能な状態の変化である。その電気ショックを人は「神」とでも呼ぶのだろうか。


                                     2016.12.31    佐々木利夫


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心と魂(たましい)