主に政治的な場面に多いような気がしているけれど、「国民的議論」という言葉はそれほど珍しくなく私たちの回りに存在している。権力を持つ政治家や多数を占める政党などに意見に対し、反対の政策や意見を聞くことなく押し切ろうとしていると考える反対党や反対の意見を持つ識者や専門家などが発する言葉である。

 言ってる意味は正しい。「自分勝手に決めるな」、「国民の多くが理解し賛成しているかを確かめてから行動を起こせ」とする意見であろう。つまりは独断や偏見を排除して、国民の多数が納得する政策なり施策を決定せよとする意見だと思うから、私たちが信奉する民主主義のルールからしても当然の意見であると言ってもいいだろう。

 だが、この主張には二つの点で問題がある。一つは「国民的議論」とは何かという点である。それは例えばある政治的決断がなされるとき、私たち国民はどんな場合にもその決断に直接関与することができないということがあげられるだろう。あらゆる政治的決断について、私たち国民が国民の一人としてそのすべてにどう参加するのかという視点である。

 国民投票というシステムがある。右か左か、上か下かはともかく、いくつかの選択肢を国民に示し、それを直接投票という形で国民の意見を集約する方法である。国民を優秀と認めるか、それとも衆愚と呼ぶほど愚鈍と判定するのかはこの際置いておくことにしよう。また、ここで言う「国民」の定義を例えば18歳以上とし、それ以下は選挙権なしとして「国民という枠から排除する」システムについても、疑問はあるものの当面は認めることにしよう。

 こうして行われた国民投票結果を、仮に投票率が50パーセントを切ることがあったとしても、投票者の多数意見をともあれ国民の意思だと結論付けることもいいだろう。

 だが私たちは直接投票という手段を、政治的決断の手法としては選ばなかった。私たちを含む世界中の国々が、民主主義の手法として代表による決断をもって国民の意思とする手法を選んだのである。選挙によって選ばれた受任者による決断を、国民の意思として擬制することにしたのである。それはもちろん場合によっては偏った母集団による判断になる可能性だってないではない。国政選挙で選ばれた集団が、国民の平均的意思を示すプチ集団になっている保障は必ずしもないだろうからである。

 それでも私たちは「選択を誤った場合は次回の選挙で修正する」という条件を留保したうえで、選挙で選んだ集団による判断を国民の意思とすることに承認したのである。それが国会である。選挙で選ばれた議員で構成された国会を、国民のプチ集団、国民の意思を実現するための場として認めたのである。

 この選挙制度を承認するなら今でもこの社会には、既に「国民的議論」実現のための段取りが事実上備わっているのである。国会で議論がされた結果が、国民の意思なのであり、国会での議論そのものが「国民的議論」になっているからである。つまり、国会で議論されていることを知りながら、あえて「国民的議論」を求めよという主張をすることは、屋上屋を重ねる主張になるのではないだろうか。これが問題点の一つである。

 そして第二点は、仮に国会での議論が何らかの理由で「国民の意思の縮図ではない」、つまり国会での議論は「国民的議論とみなすことはできない」とするなら、どのようにして国民的意思を判断するのかという点である。私の知識では、国民が自らの意思を表示する手段として認められているのは、「投票」という形しか知らない。しかしこの第二点の主張を承認するなら、いわゆる「選挙」結果による代表者の議論は国民的議論としては認められないことになる。とするなら、残るは私の中では「国民投票」しか残らないし、しかも国民投票が認められているのは、知る限り「憲法改正」(憲法96条1項)のみではないかと思っている。

 もちろん「国民的議論」とは「議論する」ことであるから、単なる投票による賛否の結果だけを指すものではないだろう。国民全員による会議を開催することなどは実質的に不可能だから、恐らくその議論は地区での分科会形式によらざるを得ないだろう。町内会か地区集会か、それともマンション管理組合での総会などでの代用でもいいのか疑問は残るけれど、そうした議論の場を全国的に作り上げてその結果を集約する、それも国民的議論にはなるとは思う。

 でもこうした議論の場を設けること自体、私にはどこかす不可能であるような思いを抱いている。北海道から沖縄までの全国民が、各々の主張をぶつけ合って議論できるような場を設営することそのものが、私には空論にしか思えないのである。

 恐らく「国民的議論が必要だ」とする見解を示している識者の頭には、「選挙結果は必ずしも国民の意識を反映していない場合がある」、「派閥やトップの思惑などで国民の意思が歪められる場合がある」、「諸外国や圧力団体などの力によって、国民の思いとは別の方向に進んでいく恐れがある」などの思いがあるのだろう。

 そうした危険性のあることは私にも分る。国民もまた国民全体を考えることなく、単に「私の生活」や「私の住んでいる地域」の繁栄のみを望んで投票することだって考えられるからである。

 それでも私は「国民的議論」を主張する者が、「国民的議論」の意味、「国民的議論」の手段や方法、「国民的議論」の集約方法、「国民的議論」の欠陥などについて何ら触れることなく、いかにも「国民全体の意思の集約」=「国民の正義」みたいな思いだけを抽象的に振りかざしてることに、落胆と時に憤りを感じてしまうのである。そんな思いで「国民的議論」を主張しているのだとしたら、彼等の思いは「自分の思いだけが国民の思いなのだ」とする思い上がりであり、自説がまかり通るまで「国民的議論」を主張し続けることになるのではないだろうか。


                                     2017.11.18        佐々木利夫


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国民的議論