「
・・・大学の授業でこの言葉を知っているかを聞くと、手を挙げる学生は一割弱。この分野の教育がいかに遅れているかを示している。・・・」(朝日新聞、2017.11.20、「学びを語る」)。
これは「メディアリテラシー 事実は多面的 違う視点想像を」と題して、映画監督で明大特任教授が新聞紙上で綴った言葉である。前段に「メディアリテラシーの基本的な定義を知っているか」の問いかけがあり、それが発端になっている。
特に抵抗なく読み進んでいったのだが、途中で「チョット待てよ」と気になってしまった。確かに教育が一定の効果を持つことは否定できない。国際的な紛争地帯や貧困国などで十分な教育を受けられない子どもたちの存在が問題とされ、日本にだって貧困によるものか、はたまたいじめや本人の意思による学校嫌いが原因かはともかく、教育を受けられないことがその子どもたちの将来に大きな影響を与えることが指摘されていることも知っているし、理解できる。
私がこうして70数歳になるまで、就職して家庭を設けそして現在の気ままな秘密の基地まがいののんびりした生活を送ってこられたのも、恐らくは高校までとは言いながらきちんとした教育を受けてきたことが大きく影響していることだろう。そのことを否定しようとは思わない。
それでも論者の言う、「この言葉を知らない」ことを「教育の遅れを示している」ことと、ストレートに結びつける考えにはどうしても与することはできない。なぜなら、そんなことを言っちまったら、あらゆる知識不足の要因はすべて教育の遅れに結びつくことになってしまうからである。
恐らく論者の言う「教育の遅れ」の意味は自己責任を指しているのではあるまい。つまり自力で学ぶことの不足や自分自身の責任による努力不足や勉強不足を指しているのではないだろう。それは「この分野の教育が遅れている」とする記述からも知ることができる。彼の言う「教育」の意味を必ずしもきちんと理解できているわけではないが、「この分野」と限定していることは、政府なり教育機関なりの教育に対する姿勢というか考え方が、偏っていた結果であると言いたいのではないか思う。
つまり、「こうした分野の理解ができるような教育が当然必要であるにも関わらず、それがなされていない現実」を論者は指摘したいのだろう。私がこの新聞記事にへそを曲げるような思いを抱いたのは、私自身の中に「メディアリテラシー」に対する知識がほとんどなかったからである。
もちろん、「だからこそ教育が必要なのだ」と指摘されてしまえば、それは事実なのたから知識不足を素直に認めることにやぶさかではない。でもこの論理を認めてしまうと、「あらゆる無知のすべて」が「教育の遅れによるものである」ということになってしまい、それゆえにそこで結論が出てしまうことに違和感を覚えたのである。
どんな人にも「知識の欠落」はあるだろう。「すべてを知ってる人」など、恐らく神様にだって無理ではないかと思うのである。
「ある事実を知らないこと」、それが教育の遅れだとする新聞記事の考え方、というか論者の考え方の背景には、「こんなことは知っていて当然であること」、「それを知らないことは学校で教えなかったからだ」という偏った思いがあるのではないだろうか。教育の意味をもう少し広範に社会なりメディアなりの啓蒙不足にまで広げてもいいかもしれないが、論者の思いには「こんなことは知っているのが当然」という思い込みが無条件で前提になっているように思えてならない。
もちろん教育機関として、最低限度の知識(それがどの程度かは議論のあるところだろうが)の提供なり理解させる努力が求められるであろうことを否定はしない。だからと言って論者が言うように、「それを知らないこと」がすべて教育不足にあると結論付けるのは間違いであることを超え、暴論ですらあるように思えてならない。
私たちは得てして先入観や思い込みで物事を判断しがちである。それは人間としてやむを得ない習性なのかもしれないけれど、そのことに常に考慮しつつ自分の思いを他者に押し付けることのないよう努力する必要があるのではないだろうか。そうでないと、「どんな場合も私だけが正しい」、「私の言うことに間違いはない」が前提となり、それに反対する意見をすべて封殺してしまうことになるような気がする。
「知らないことなんて山ほどある」と、私の無知を自慢するつもりはない。しかし、まさに人は無知の固まりであり、「知っている」と思ったことすらどこまで理解しているかは疑問である。むしろ、「知っていることも錯覚であり、実は知らない」のが人ではないのかとすら思うときがある。
だからと言って「知らないこと」を賞賛したり、「このままでいいのだ」と知識の停滞を承認したいわけではない。「勉強なんか嫌い」と思う人だって、日々の生活の中で意識するかどうかは別として、常に新しい知識を獲得していくのが当たり前の人生なのだろうし、それが「生きていくこと」なのだろうと思う。
無知を自覚することは、そんなに嫌悪すべきことではない。むしろ無知の自覚の中にこそ新しい自分を見つけることができるのだし、知らないことの発見は新たな世界への挑戦と喜びを与えてくれる。読書でも、テレビのニュースショウでも、毎日の食事でも、家族や友との付き合いにも、どんな下らないと思えることにも、人はいつでも無知と向き合っている。
しかも彼はこの文章を次のように締め切っている。「
・・・発信者の主観が入る限り、ほとんどの情報はトゥルース(真実)でもあり、フェイク(偽)でもあるからだ」。つまりは、真偽の程は良く分らない、もっと勉強せよということなのだろうか。そしてその勉強不足は教育の遅れからきていると主張したいのだろうか。
2017.11.25
佐々木利夫
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