私たちは民主主義というシステムを信奉とも言うべき高みに置いている。その信奉はあたかも一種の宗教として崇拝しているかのようでもある。恐らくそうした背景には民主主義というシステムが、国民が国民としての権力を所有し行使する国家形態を創造できるからだと信じているからなのだろう。そしてそれは国民主権であるとか基本的人権などと呼ばれる、個々人の人間としての尊厳が保証されるだろうことが基本となっているように思う。

 それはつまるところ集団の持つ意思決定を指す言葉である。独裁者や王様や権力者などの特定の個人や組織が国家の意思を定めるのではなく、国家を構成する個々の国民が自らの意思として国家の意思を決定できるシステムを指すものだとする信頼に基づくものでもあろう。

 しかし、考えてみるなら、国民とは多様な思いをもつ者の集団である。個々人が個としての意思を持ち、そうした中でその集大成として国家の意思を形成する、それが民主主義の基本にあるように思う。

 だとするなら、どのような方法で国民の意思を集約できるかが次なる疑問として発生してくる。ある一つの求められる判断に対して、右、左、上、下その他四方八方からの意見があり、しかもそれぞれの意見に濃淡や軽重などの違いがあるとき、それでも一つの答を出さなければならない。そうしたとき、国民はその答えの根拠をどこに求めたらいいのだろうか。

 いやいやそれ以前に、「国民」という存在そのものをどのようにとらえたらいいのだろうか。個々人は確かに存在する。そして個々人が数万人、数百万人が集まって住む特定の地域がある。だがそうした地域を国と呼びあるいは部落と呼び、そこに住む個々人を単純に「国民・住民」と呼称することで足りるのだろうか。そして仮にその集団を国民と呼ぶことを認めたとしても、その全体の意思なり思いを、どんな方法で確かめたらいいのだろうか。そして出された答えは、国民の意思になるのだろうか。

 その決定方法に民主主義は一つの答を出した。多数決原理というシステムであった。ある集団の過半数の者の望む意思が、その集団全体の意思であると擬制する手法である。100人の集団があったとき、そのうちの51人以上が持っている意思を100人全体の意思であるとみなすのである。

 そうした意思決定のシステムは、結果的に過半数に達しなかった49人の意思を無視することになる。もちろんすべての選択肢が右か左かの二つに分けられるものではないだろう。Aに対する賛成が51人だったとして、B説25人、C説15人、D説10人ということもあるだろうし、もっと多様な分かれかたをする場合もあるだろう。

 問題はA説だけが過半数であることを理由に100人全体の説として採用されることになり、他のB,C,Dは無視されることになることである。過半数は決して51対49に限られるものではない。99対1もまた多数決の答えの中に存在することに違いはない。

 誤解てあると言われるかもしれない。間違っていると批判されるかもしれない。錯覚であると断じられるかもしれない。そうした様々な意見を承知の上で、私は「民主主義とは多数決である」との考えを支持しようと思う。私たちはそうした多数決による答を全体の意思であるとするシステムを、長い間承認してきたのである。それが正義であり、それしかないのだとすら思い込んできたのである。

 確かに多数決システムには、少数意見にも耳を傾けるとする思いが含まれていた。それは多数意見の暴走にブレーキをかけ、少数意見が多数意見を説得することで多数と少数が逆転する可能性を多少なりとも示唆するものであったはずである。だが現実の運用はそうはならなかった。

 「多数意見こそが正しい」との思いに余りにも重点が置かれ、「少数意見が切り捨てられる」ことへの視点がまるで欠けるようになってしまった。その上、「多数意見こそが正しい」はいつの間にか「多数意見だけが正しい」に置き換わり、その考えに「少数意見は間違い」であり、「無視していい、排除すべきだ」にいたるまでの思いが付加されるようになってきている。

 多数は神託であり、絶対的正義として君臨するようになってきた。それはそのまま少数意見の無視であり、無視を超え否定にまでつながるものであった。恐らく考え出された当初の民主主義には、「少数者を無視する」までの思いは含まれていなかったのではないだろうか。結果的に少数意見は無視されてしまうのかもしれないけれど、多数意見に協調するように仕向けるための努力が内在していたように思う。

 だが現実の多数意見はそうした努力目標をも無視した。多数の違いのある意見に一つの流れを求めようとするのが多数決だったはずなのに、その流れを望む者が多数意見を利用するようになってしまったのである。ある特定方向への流れを望む少数が、その流れを多数意見として利用する術を覚えてしまったからである。集団の意思を多数意見へとコントロールする、そうした手法を特定人が獲得したとき、民主主義はその正義たる資格を失うことになったのである。

 コントロールされた多数意見は、少数意見の否定という新たな目的を持たされることになった。そしてそれはやがて、コントロールされた多数意見をも無視することにまで使われるようになった。「この流れは多数の意見によるものである。だからこの流れは正しく、しかも多数決原理に基づく全体の意思である」、そんな使われ方をされるようになった。コントロールされた多数意見の表明者は、自らが選択した多数意見に疑問を抱いたとしても、「多数が選んだ結果である」という事実に自らもまた拘束されることになったからである。

 現在の世界政治の多くはこの多数決原理が支配している。それはまさに国民自らが選択したことの結果として、国民による統治の形をとっている。少数意見もそして自らの選択した意見に疑問を持ち始めた多数をも無視して、現代の民主主義は崩壊し暴走している。

 おそらくその背景にあるのは、「多数決はコントロールされやすい」ことにあるような気がする。例えば選挙、例えば投票、例えば賛成の挙手などなど、意見を表明する場は限りなく存在する。そしてその選択はまさに自己責任である。自己責任の集約として多数意見が存在する。そのことに異はない。だがその自己責任こそが多数意見を利用したいと望む特定の者のコントロールに委ねられているような気がしてならない。

 自己責任に縛られて身動きできなくなっている社会、私はそこに民主主義の崩壊を見る。身動きできないまでの呪縛の中で人はやがて暴発する、それが現代の国家対立やテロや宗教争い、更には暴動や略奪などなどの混乱の根源になっているのではないだろうか。

 トランプ次期アメリカ大統領をめぐって世界は混乱している。イギリスのEU離脱もまた世界の混乱に拍車をかけている。中東からの移民難民の流入は、あらゆる国に内向きの政策を求めるナショナリズムの動きとして作用している。これらはすべて選挙という名の民主主義、そして多数決という名の呪縛に閉じ込められた結果である。

 世界の政治が不安定化しているという。民主主義は崩壊した。それにもかかわらず私たちは、民主主義に代わる新しい道筋をまったく見つけられないでいる。右往左往するしかできないでいる国民という名の人類は、一体どこへ行こうとしているのだろうか。


                                     2017.1.6    佐々木利夫


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民主主義の崩壊