数日前の帰宅途中で聞いたNHKラジオでの対談である。聞き手はアナウンサーであったが、対するゲストは沖縄近くに居住する自然保護団体の役員のように感じた。内容は、沖縄か奄美かその界隈に住む野生化した猫についての話である。家庭で飼われていた猫が、遺棄や家出など様々な理由で野生化して野良猫が増えているのだそうである。その結果、その地方の固有種である「アマミノクロウサギ」であるとか、「ヤンバルクイナ」、その他多くの動植物などの貴重な希少動物が猫の餌食になっていることに対する訴えであった。

 猫という生物をどんなふうに定義するか、私に必ずしもよく分かっているわけではない。ライオンもヒョウも、チーターや虎なども猫の仲間だし、○○ヤマネコなどの名前がつけられた種類も多い。恐らく猫の仲間に属する種のほとんどは野生であろう。つまり猫属の本来は野生であるといってもいいのではないかと思う。

 だがここで問題となっている「猫」は、恐らく家庭で飼われているペットとしての猫を指しているのだろう。自らの意思で飼い主から独立して野良猫となったのもいるだろうけれど、その多くは原因はともかく飼育放棄によるものであり、更にはそうした仲間内で繁殖し増加していったものではないかと思う。つまり、ここで「猫の野生化」と言われているのは、つまるところ家庭で飼われていた猫の末裔であると限定してもいいのではないだろうか。

 そうした猫が野生化して希少生物の捕食者になる、これをなんとかしたい、なるほど話は分る。野良猫は邪魔者で、アマミノクロウサギは絶滅危惧種だから貴重で保護しなければならないという理屈は、一見分るようで分らない部分もあるけれど、当面は理解できることにしよう。

 分る部分とは、貴重種は大切にしようとする理論であり、ダイヤモンドは河原の石ころよりも貴重品として扱われている現実があるからである。分らない部分としては、大きくは種として異なる個体としての「命」に対する軽重であり、更には餌食となる動物を救うという観点からするなら、交通事故による野生動物の死、つまり人間によるアマミノクロウサギの死や猫以外の捕食者(例えばマングースやカラスなど)による被害も無視できないだろうとの思いがある。つまりはなぜ猫だけがターゲットなのかという疑念からくるものである。

 そこのところの議論はまたの機会に譲ることにして、今回は「猫によって希少生物が捕食されること」が悪だとする見解をとりあえず承認することで話を進めていくこととしたい。

 貴重な種を守ろうとするゲストは、そのためには猫の駆除が必要であると言う。そして「苦渋」という冠詞はつけているものの、猫を安楽死させるという言葉を発したのである。

 それを聞いたときに、それまで特に抵抗感なく耳に流れていた「アマミノクロウサギを守れ」のストーリーが、突然違和感の只中に突っ込まれたのである。野良猫が増えてウサギが食われることが困る、野良猫を駆除しなければならないとの分りやすい物語が、この「安楽死」の話題で突然私の通勤の足を止めてしまったのである。

 ゲストは「安楽死」の言葉を、「猫にとって、できるだけ苦痛の少ない方法で駆除する」の意味で使ったのだろうとは思う。だがそのとき私は思ったのである。安楽死という発想は、死にゆく者の納得、承認、理解があって始めて成立するのではないのだろうか・・・と。

 私たちは安楽死という言葉を、極めて一般的に「回復の見込みがなく苦痛の激しい病人を、本人の依頼または承認のもとで人為的に死なせる」という意味に使っているのではないだろうか。

 もちろんもう少し「安楽」の範囲を広げる場合もあることが分らないわけではない。例えば死刑囚への死刑の執行に当たって、日本の刑法は「絞首」と定めているけれど(刑法11条)、その執行方法をなるべく本人の苦痛の少ない手段によることは求められるだろう。例えば投薬や電気による執行もあるなど、死刑の執行方法は国によって様々である。そうした同じ死刑でも、そこに「なるべく本人の苦痛の少ない手段」の選択について、それも「安楽死」の一種の範囲に含まれると考えてもいいような気がする。

 「苦痛の大きい死とそうでない死」が、現実にあるだろうことは抽象的にではあるが理解できる。だが、本人が死を納得していないような場面に、果たして「安楽死」という観念を適用してもいいのだろうか。また、あっていいのだろうか。

 もちろん死刑や末期の病人など、「死が所与」である場合もあるだろう。でも安楽死の概念は、その死を本人ではなく他者が早めることを意味しているのである。だとするなら、安楽死はその他者のためにあるのだろうか。そしてそのときに本人の意思などは無視してもいいのだろうか。

 ナチスは600万人とも言われるユダヤ人を抹殺した。ナチスにしてみれば、民族浄化とはユダヤ人をこの世から抹殺することであり、ユダヤ人は少なくともドイツには生きていてはいけない民族だった。つまり、ユダヤ人の死は、所与だったのである。だとするなら、効率の良い執行であるガス室送りは安楽死だったのだろうか。安楽死とは他の抹殺方法との比較においてのみ論じられるのであって、死を宣告された本人の納得など不要だということになるのだろうか。

 私には、このゲストの言う「安楽死」が、単なる「野良猫の抹殺」という事実を、「苦痛の少ない方法で執行する」という観念に、オブラートに包み込んで矮小化しようとしているだけのようにしか思えなかったのである。

 もちろん望んで早期の執行を希望する死刑囚もいるだろうとは思う。私の娘も家族ぐるみで猫を飼っていて、いつも病気や運動などに気を使っているようだ。我が家にも時々連れてくることがあるが、残念ながら私にその猫の気持ちや意思が伝わることはない。猫がどんなことを考えているのか、そもそも私たちが互いに理解し合えるような「考え」そのものを持っているのか、まるで分らない。だから、猫に「安楽死」という考え方が理解できるとは到底思えない。

 猫に向かって、「自らの死について、自らが理解し希望したのか・・・」という問いかけがどこまで可能なのかは難しいことではある。それでも、少なくとも猫が「私はヤンバルクイナという希少生物を捕食してしまったことを悔いている。だから死刑を宣告され抹殺されたとしても構わない。ただ、殺処分はなるべく苦痛の少ない方法で執行してほしい」などと思うことなどないと、私は考えている。

 安楽死という言葉は、安楽死する側から見た論理ではなく、安楽死をさせる側が勝手に作り上げた屁理屈に過ぎないのではないだろうか。「死ぬほど苦しい」、「死ぬほど痛い」と叫ぶ者から、「だけど死にたくない」と訴えるそんな言葉を聞いてもなお、相手の苦痛の激しさを慮って死へと協力することまで、安楽死の範疇に含めてしまっていいのだろうか。

 それは死なせる側が、自分が見ていられないほど苦しんでいる相手を目の前にして、自らのためにその苦しんでいる姿を取り去ろうとする方便に過ぎないのではないだろうか。更に言うなら、安楽死の対象たる相手(人にしろ猫にしろ、はたまた駆除するためのいのししや熊やトドなどの数多の動物、もっと言うなら食うために屠殺する牛馬豚鳥などの死にしろ)を、私の手で殺したという罪の意識を軽減、もしくは正当化させるための、壮大な詭弁なのではないだろうか。


                                     2017.10.20        佐々木利夫


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猫の安楽死