私の生まれは夕張だけれど、札幌で過ごした期間の方が長くなった。高卒で公務員試験に合格し、夕張・稚内・苫小牧・釧路の各税務署の勤務を経て、昭和46(1971)年・31歳で始めて札幌へと転勤になった。税務講習所での一年間の研修を除いて、これが最初の札幌勤務であった。実はそれ以来、現在まで引き続き札幌に住んでいる。札幌が所在地の国税局と国税不服審判所での勤務が長かったせいもあるが、定年までの途中で転勤した帯広・旭川・苫小牧はその全部を単身赴任で過ごしたこともあって、最初に与えられた札幌の公務員宿舎を転居することはなかった。

 その後47歳でマンションを購入し、現在まで引き続き住んでいる。だから公務員宿舎から引っ越したものの、最初に札幌に勤務して以来退職後も含めて現在までの46年間、継続して札幌に住居を有していることになる。つまり、31歳までは生まれ育ちも札幌以外だったけれど、その後の46年間は継続した札幌っ子というわけである。ということは私の人生の約6割が札幌在住であるということになるから、我が身を札幌っ子と呼んでもそれほど間違いではないだろう。これがタイトルにつけた「札幌」の意味である。

 ところで、タイトル後半の「おのぼりさん」とは、東京へ始めて足を踏み入れてうろうろしている、いわゆる「上京した田舎者」の意味である。なぜ、「おのぼりさん」なのか、それは旧国鉄時代(現在のJR)から使われていた列車の進行方向と結びついている。行き先が東京方面であるときはその列車を「のぼり」と呼び、東京方面から離れていく列車は「くだり」と呼んでいたからである。こうした呼び方は、今でもそのままである。

 東京は都会であり、そっちの方面に向かう列車は、たとえ行き先が東京とは無関係であってもすべて「のぼり」だったのである。そのうち、のぼり列車、くだり列車の呼び方は、単に方向を示すだけではなくなってきた。田舎から都会、都会から田舎へと言った列車方向を意味するイメージは、単なる方向であることを越えて都会と田舎の差、環境の違いという印象を人々に与えるようになっていった。

 だとするなら、九州や四国から東京方面に向かう列車にも当然「のぼり」「くだり」はあったと思う。だが、私が北海道生まれ、北海道育ちだったせいなのか、そこまでの知識はない。ただ西日本には大阪という都会が東京との途中にあったことで、「のぼり」のイメージは北日本方面から東京への方向を指すような印象が強かったのかもしれない。その意味で「おのぼりさん」は、東北・北海道から東京の玄関口である上野駅で途方に暮れている田舎者を指すような傾向が強い。そして「おのぼりさん」と一種の「さん付け」で呼んだのは、そうした「田舎者」を揶揄する雰囲気が込められていたように思う。

 東京は基本的には雑多な地方人からなる集合体だと思うのだが、それでも一度住んでしまうとどことなく「私は都会人」という意識に捕らわれてしまい、都会の雰囲気に戸惑っている「地方出身者」をどこかで上から目線で眺め、「おのぼりさん」という呼び方に優越感を抱いていたのかもしれない。

 さて、タイトルの「札幌おのぼりさん」であるが、つい最近、札幌駅近くの病院へ行く用事があった。私のマンションから徒歩数分の発寒駅から札幌駅までは、普通列車で「発寒中央」→「琴似」→「桑園」を過ぎて四つ目である。都心に住んでいるとは言えないかもしれないけれど、発寒駅から札幌駅までは僅か11〜12分の乗車時間でしかない。札幌駅前の商店まで歩いていったこともある近さである。

 その札幌駅で私は迷ったのである。まるで生まれて始めて東京へ足を踏み入れた、「おのぼりさん」状態になったのである。確かに札幌駅には南口北口のほかに道内の各地へ向かう改札口がいくつもあり、しかも地下鉄南北線と東豊線が交錯しているなど複雑である。加えてデパートというべきか量販店というべきか多数の店舗が地下でつながり、更には専門店や飲食店なども含めて地下街は雑踏化している。

 目的の病院は駅から徒歩20分くらいの距離にあったので、片道は歩き、帰りは地下鉄の東豊線で札幌駅まで戻ることにした。帰りの札幌駅へは下りた地下鉄駅から10数分地下街を歩くだけで、容易に到着できる(はずであった)。新しい街に戸惑うことは、別に都会に限るものではないだろう。だが小さい街よりも大きい街のほうが、戸惑う確率がより高いだろうことは分る。だが私は札幌っ子である。溢れる数ほど札幌駅を利用しているし、地下街にも十分精通していると自負している私である。

 ましてや札幌駅は私の自宅からJR10数分の、いわば生活圏内の駅である。東京人が北海道のぽっと出を田舎者と評するのとはわけが違う。いわば私は、東京人と同格なのである。新宿区に住んでいて新宿駅を利用するのと同じようなものなのである。

 にもかかわらず、私は「おのぼりさん」になってしまった。地下街は通路だけではなく、碁盤の目のように大小様々な商店が入り混じり、更に地下街は1F、2Fと複層化している。そして各店舗はきらびやかな光の渦の中にアピールを重ね、「我が店はこちら」とばかり目の前だけでなく遠くの客も呼び込もうと、やっきである。「札幌駅はこちら」の標識も存在しているのだろうが、様々な誘導表示のほうに目が移り、なかなか見つけられない。

 パニックに陥るほど迷ったわけではないが、何度か道行く人に尋ねながらどうやら札幌駅にたどり着くことはできた。できたけれど、札幌駅地下街の複雑な広がりに圧倒されている私がそこにいた。恐らく同じコースなら再び迷うことはないだろうし、地下街そのものだって、数回経験するだけで目的の店なり方向へ迷うことなく辿り着けるようになるだろう。

 それでも私は、この地下街の発達というか変化というか、あたかも生きて増殖しているような発展の仕方に、一種の巨大生物を見たのである。JR地下街はこれまで数十年にわたり何度も経験している。それでも、数年前にJR札幌駅は「地下鉄大通り駅」までの通路を新設したように手足を伸ばしている。まさに札幌駅そのものが地下街も含めて、左右の平面のみならず立体的にも増殖し、あたかも巨大生物の様相を呈しているのである。

 巨大化するのはいい。ただ、そこにはどこか信頼とか信用と言った安心感が欠け、人と人、人と物を結びつけるような充実が希薄化していっている。そこには空疎が広がり、スカスカの隙間風に砂塵の舞う空間で構成されているように思えてならない。その空間が組織であり知性を持っていることは知っているけれど、どこか実体に欠けている思いがする。

 つい先日経験した「おのぼりさん」の修復がいつまで通用するのか、それも分らないくらいに駅そのものが変化していっている。しかも、現在、東京から青函トンネルを越えて函館まで開通している新幹線が、2030年には札幌へ延伸されることが決まっている。新幹線の札幌駅のプラットホームをどこにするかの議論が時折新聞紙上を賑わしている。これもまた札幌駅を巨大化する滋養になっていくのだろう。

 我が家は小樽から続く新幹線ルートの終点沿いにある。鉄路が地下地上のいずれを通るのか、そろそろ地上に出てくる付近に位置しているのかも分らない。ただ、いずれにしても工事が始まればそれなりの影響が出てくることは確実だろう。とは言っても開通は13年後である。77歳の私は90歳になっている。そこまで生きていられるかは疑問だし、そこまで長生きしたいと必ずしも思っているわけではない。だからそれほど気にはならないのだが、札幌駅はこれからも着実に巨大化し増殖していくことだろう。

 考えて見れば、私の生きてきた時代は、「おのぼりさん状態」を我が身に重ねていく時代だったような気がする。戦後の「何にもない時代」から、「何でもある現代」へのすさまじい変化は、常に「取り残される恐怖」に尻を叩かれ続けた時代だったような気がする。だから老人が自動的に「おのぼりさん状態」になってしまうことに、それほど抵抗はないとも思っている。それはそうなんだけれど、人の世が繁栄とか便利とかの名目で、あたかも勝手に増殖していくような時代の変化が、どこか気になって仕方がない。

 「それでいいの?」、「そんなことでいいの?」、「そうすることが本当に人のためなの?」、「少し立ち止まったら?・・・」、「方向はそれでいいの?」、「ちょっと待って」、「そんなに急がないで・・・」・・・。

 私は自分が札幌駅で「おのぼりさん」になってうろうろしたことを棚にあげ、どこかで逆艪をこいでみたいような気になっているのである。


                                     2017.5.12        佐々木利夫


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札幌おのぼりさん