数日前、「白人に似せることがおしゃれ?」と題する新聞投稿があった(2017.12.2 朝日、埼玉県 会社員女性 23歳)。「女性向けの雑誌や広告に、白人に似せることがおしゃれとされている気がする」、「お金もうけのために女性をいたずらにあおる」、「私たちは白人ではありません。ないものをよしとするおしゃれは息苦しく、手間もお金もかかります」、が主張で、「みんなちがって、みんないい」が結論であるような気がする。

 「広告なんてそんなもんさ」と思う一方で、そうした広告に踊らされている投稿者のような女性の気持ちも分るような気がした。気はしたのだが、その反面、どこかで「そんなことくらい自分で考えろよ」と思っている自分がいた。

 つまり、「広告が悪いのか」、「広告に影響される女性が悪いのか」、「影響される自らをコントロールできない自分自身が悪いのか」の問題である。もちろん、これら三者がそれぞれ独立しているわけではない。むしろそれぞれが密接につながり連続しているとも言えよう。

 だからサギ広告や誇大広告の規制がなされていたり、広告に惑わされることのないようにとの注意喚起がされているのだろう。偽りの事実に誘導するような広告が、悪であることを否定するつもりはない。また単純に「騙されたほうが悪い」と割り切るつもりもない。

 それでもこの投稿者の考えには、「自分がない」ように思えてならない。投稿者は「おしゃれ広告」を、「惑わされて時間や金銭を無駄にしているものだ」と断じている。だがその根拠として彼女は、「私が白人ではない」ことだけをあげているに過ぎないと思えるからである。

 おそらく投稿者は純粋な日本人で、日本人らしい容貌をしているのだろう。そして白人がモデルとなっている雑誌やテレビなどで展開される派手な化粧品メーカーのコマーシャルを見て、「白人でない私には効果がない」と思ったのだろう。そのことを批判するつもりはない。むしろその思いを応援したいほどである。

 ただそれは、自分で自分に適用すればいいだけのことではないだろうか。もちろん、ことは化粧である。化粧の本質は恐らくではあるけれど、「他者から評価を求める」ことで「自らが満足する」ことにあるのではないかと思う。

 恐らく化粧の発祥は、一種の変身というか宗教的な行動の中で自らを神か呪術師かはともかく、一段上にある他者に変身させることにあったとは思う。だがそれが「美しさを求める」行為へとどのように変化していったのか、そこまでの知識は私にはない。そしてそうした意味合いは、原始共同体での行事や伝承されている伝統芸能での歌舞音曲などに僅かに残っているのみで、今ではほとんどが「美しさ」を求める行動へと変化している。

 そうした変化が、例えば投稿者が思うような「白人になれる」ことを錯覚させるような宣伝になっているのかどうか、それは分らない。私の意識の中では、例えばアメリカで若い娘や若者が白粉を塗ることで黒人が白人になれると思い込んだような、そんな間違った印象を植え付けているとは思えないのである。

 もちろん可能性として、彼女はこの化粧品を使うことで、白人のようになれると一瞬思ったのかもしれない。そして雑誌を見た多くの人たちも、自分と同じように思うのではないかと危惧したのかもしれない。「目を覚ませ」、「だまされるな」、そんなことを投稿者は多くの人に言いたかったのかもしれない。

 でも白人のモデルを使ったコマーシャルは、「白人になれる」、「白人のようになれる」ことを広告したかったのではなく、「この白人のようにきれいになれる」ことを言いたかったのではないだろうか。だとするなら「白人のモデルを使う広告」も、「このような美人になれる」と錯覚させるような「日本人の美人モデルを使った広告」もまったく同じ意味を持つのではないだろうか。

 投稿者の顔は掲載されていないので分らないけれど、もし仮に「美しい日本人女性」をモデルにした広告が掲載され、そのモデルが投稿者よりも美人であり、少なくとも「投稿者がモデルのような美人にはなれない」と思ったとしたなら、それでも投稿者は同じようにその広告を批判したのだろうか。「その化粧品を使ったところで、私はモデルのような美人にはなれない」ことを理由として・・・。

 流行に疎い私なので、今では死語になった昔のファッションを蒸し返すことになるとは思うけれど、ガングロという顔を真っ黒に塗りたくるファッションが流行ったときがあった。またツィギーの真似をしたりアムラーと呼ばれるスタイル、ルーズソックスやラメ入り化粧品などが流行った時代もあった。

 それらの流行は、その人たちの思惑に任せてもいいのではないだろうか。「私はそんな化粧は嫌いだ」と思う人がいたとしても、その気持ちは気持ちとして尊重はする。だがだからと言って、その気持ちを他人に強制したり非難したりするのは間違いなのではないだろうか。

 真似したい人は真似すればいいのだし、流されたくないと思うのであればオリジナルな化粧スタイルを実行すればいいのではないだろうか。「思う人」、「思わない人」が複雑に混在する、そんな多様な時代に私たちは生きているのであり、そうした中でそれぞれの個性を尊重することが、私たちが生きている社会がいかに素晴らしい時代であるかの証左になっているのではないだろうか。

 「自分のことなんだけど、私にはできないので誰か何とかしてください・・・」、そんな投稿者の悲鳴がどこからか聞こえてくる。そしてそれは悲鳴に違いないとは思うのだが、どこか訴えの迫力に欠けているように感じられてならない。「そんなことくらい自分で考えろ」、私にはそんな風に思えてならないのである。


                                     2017.12.9        佐々木利夫


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