40年を超える長かった職場を定年で退職し、自宅から数キロ離れたとある街外れに一人だけの税理士事務所を開いて10数年を経た。その事務所へ通いつつ還暦を経験し、古希を過ぎ、そして今年喜寿と言われる77歳を迎えた。日本人の平均寿命は男80.79年、女87.05年と言われているから、この歳まで生きるとすると、残るところ3年少々で私の寿命は尽きることになる。だがこの平均寿命とは0歳児、つまり生まれたばかりの赤ん坊の寿命を表したものであり、各年齢層それぞれの寿命とは異なる。

 それは平均寿命と同時に発表されている、各年齢ごとの平均余命とされる数値によるしかない。厚生労働省が昨年7月に発表した平成27年簡易生命表によると、77歳の平均余命は男10.75年、女14.09年である。私が日本人の平均値に代表される人間であるとは必ずしも言えないけれど、仮にこの平均余命を使うとするなら私の寿命はあと11年弱残っており、少なくとも87歳まではこの世に存在を許されることになりそうである。

 私があと何年生き残れるか、しかもどこまで健康で生きられるかはともかくとして、私たちは「人は歳を経るごとに成長していく」ことを、暗黙の了解事項としてきた。人の一生は赤ん坊の無知から始まり、幼児・少年・青年と歳を重ね、成人から大人へとなるに従って少しずつ知恵がついて成長していくことを当然のこととして承認してきた。

 老成、老熟、長老、聖人などなど、年齢がその人の完成度を高めていくことを示唆する熟語は数多くある。人が老いることは成長することであって、体力はともあれ知識も知恵も減ることなく蓄積されていくのだ(つまり加算されるだけで減算されることはない)と私たちは無意識に信じてきた。

 平均寿命と平均余命の違いについては冒頭に書いたとおりである。「成熟していく知恵」みたいなものの基準をどこに求めるのかの疑問はともあれ、仮に平均寿命の男を例にこの成熟を考えてみよう。男は平均的に81歳で終焉を迎えるとするなら、77歳の私は知識や知恵のピークの時期を迎えていることになる。もちろん余命表によれば、あと10年くらいは知識の加算が望めそうではあるけれど、まあ現在がピークであると考えてもそれほどの違いはないだろう。

 前述したように、どんな知識や何の知恵を基準に成熟度を判断するのか、またそのピークの判定を誰がするのかなど疑問は残る。しかしながら、不確かではあるかもしれないけれど、逆に一番適切とも思える判定人は自分であろう。自惚れにしろ、自己満足にしろ、はたまた過大評価にしろ自分の最大の理解者は自分であり、まず「自身が自身をがどう考えるか」がこうした判定のスタートになるように思えるからである。

 そう考えたとき、年齢が人間の完成度を高めていくとの方程式は、もしかするととんでもない間違いなのではないかと思えてくる。それは単に加齢に伴って認知症など判断力が低下していく危険性があるというような、物理的な現象を根拠とするものではない。

 確かに記憶力の低下などが現実に起きることを否定はできない。だが認知症のような疾患によるものでなくとも、認知機能の衰えは加齢に伴うある程度の必然である。それにも関わらす加齢と人間の完成度はいつも正の相関、つまり右肩上がりに比例していくとする考えは正しいのだろうか。

 自らが高齢になり、こうしてエッセイなどと自慢げに雑文をホームページで発表している我が身を振り返ってみると、そこに見えてくるのは決して「望ましい自分に近づいていく自分の姿」のみではないことが分ってくる。

 例として、犯罪など刑事罰の対象たる行動などを考えてみよう。私自身は他人を傷つけたり、他者の財産に手をつけるような行為はこれまでにしたことはない。だが刑務所に高齢者を介護するための部屋が新設されるとの話題がニュースになったり、老人の再犯率が問題視されることなどを考えると、老人になることと罪を犯さなくなることとは無関係であるとの現実が次第に見えてくる。人は年齢と共に成長していくとの方程式は、現実世界では必ずしも成立していないように思えるのである。

 そして我が身である。人が成長であるとか完成などに近づいてく過程は、必ずしも刑事事件の範囲のみに止まるものではない。例えばより温和に、より親切に、より正義に、より穏やかになどなど、他者とかかわる日常生活の多くの過程に、人の成熟度みたいなものを考えることができる。

 ところが見えてくる「私の現実」は、決して善意の固まりへ近づくような過程とは程遠いことに気づく。不満、嫉妬、憎悪、我がまま、自惚れ、高慢、裏切り、短気、身勝手などなど、多くの人がこれまでに自分のこととして経験し、そして多くの人がそれを望ましくないと考えていたような負の側面が、私の中にも根強く残っていることが次第に分ってくる。

 もちろん望ましくないとはいいながらも、そうした負の側面を持っているのが人間としての当たり前の姿なのだと言ってもいいだろう。だが、老成とか老熟に向かう過程というのは、そうした負の側面が少しずつ削られ、人としての完成度が高くなっていく過程でもあるとも思うからでもある。

 ならば人は老いるに従い、少しずつにしろそうした成熟を重ねていくのだろうか。残念ながら私にはそうした自覚を自身の中に確かめることはできない。熟成を望まないというのではないけれど、身の裡に潜む負の側面が年齢と共に減少していっているとは、どうしても思えないからである。

 そうした負の側面を悪と呼ぶか、それとも他人の不幸を喜ぶ心と呼ぶか、はたまた一切を他者の責任に委ねて我が身を責任から離脱させるようなそんな無責任さと名づけるか、そうした負を何と呼んでいいか分らないけれど、むしろ老成とか老熟といったものとはまるで正反対のどろどろしたものが、この年齢になっても私の中に衰えることなく充満し、時として増殖していっていることを感じる。

 そうした思いが少しでも小さくなっているのなら、自惚れと言われようともまだ自己満足の中に押し込めることは可能であろう。身勝手と思われようとも、歳を重ねたことで優しくなった、穏やかになった、丸くなったなどと自分なりに進歩を認めることができるからである。

 だが私には違うように思えてならない。成長することの思いとは別に、歳を重ねるごとに私の中でへそ曲がりの範囲が広がっていき、更なる狭隘に追い込まれていくように思えてならない。そしてそうしたへそ曲がりを糊塗するための言い訳として、己の言動に正義という衣を着せ、身の回りに正論という名の盾を並べ立てているような気がする。そしてそして、その糊塗の心はあたかも加齢を隠すための厚化粧となり、益々老成、老熟、更には仙人やメンターなどへの道筋からは遠ざかっていくように思える。


                                     2017.1.27        佐々木利夫


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老成か偏屈か