どこまで医療は進化(?)するのだろうか。IPS細胞の研究などで日本人がノーベル賞をもらい、世界が再生医療に向かっている時代なのだから、臍帯血が話題になっていることに私が気づいたこと自体、既に私の知識が時代から遅れていることを示しているのかもしれない。

 最近の話題に臍帯血の違法取引があった。この話題が話題としてメディアを賑わすこと自体が、既に社会として普及とまではいかなくとも、すくなくとも医療界には浸透していることを示しているのだろう。

 再生医療がどこまで可能なのか、どこまで認められるのか、はたまた研究だけならいいのか、それすらも許されないのかなどなど、医療をめぐる再生、遺伝子なども含めた技術の進歩はとどまるところを知らない。そうした技術は、倫理とからむのか、それとも神の領域との競合なのか、それともそれとも単なる科学技術の進歩に委ねるだけでいい問題なのか、興味の尽きない内容を持っている。それらはいずれ他の機会に書きたいとは思っているけれど、今は最近のニュースを聞いて感じた「へその緒は誰のものなのだろうか」という、極めて単純な疑問について書くことにする。

 臍帯血とは「へその緒に含まれている血液」のことである。臍帯血が医療と関わりをもつようになったのは、つい最近のように思っている。私の理解しているのは、臍帯血ではなく、単なる「へその緒」に過ぎなかったからである。

 今はどこかへ紛失してしまっているけれど、「へその緒」は赤ん坊に対する母親からのプレゼントであった。貰った本人に、親から貰ったとか嬉しいなどと言った実感はないので、プレゼントという表現は似つかわしくないかもしれない。物心ついた頃に「これがお前のへその緒だ」として、母親から見せられだけのものにしか過ぎなかったからである。

 それは、子どもの掌くらいの薄い小箱に入った干からびて、気色の悪いいかの足か小さな貝の中味の干物のような紐のようなものであった。見せられて別に嬉しかったわけでも、友達に自慢するようなものでもなかった。ただそれは、単に「そんなもの」として母親から見せられたというだけのものであった。箱は見かけ上は桐箱のような気がしているので、高価ではないもののそれとなく「特別なもの、なんとなく貴重なもの」というイメージを抱いたことだけは僅かに記憶している。

 だからと言ってその小箱がそのまま自分のものになったという記憶はない。多分「ふーん」というなんとはない感想のもとで、再び母親の手に戻したような気がする。子どもとしては「ふーん」以外に、別に何の感激のある物体ではない。もっというなら、再度眺めて楽しむというようなものでもない。

 恐らくいつかの時点で、親から現物として引き渡されたのだろうが、その小箱の中身に懐かしさや愛着を感じるような品物ではなかっただろう。そしていつの間にか押入れの片すみか、それともタンスの子引き出しのすみっこで忘れ去られ、引越しや大掃除などに紛れていつの間にか行行方不明になってしまったのだろう。だからといって惜しいものでも、残念なものでもない。私にとってのへその緒とは、その程度のものであった。

 ところでへその緒とは、母親の胎盤から赤ん坊へ栄養や酸素を送り込む、一種の管状の組織である。中には動脈と静脈が通っていて、それによって胎児は生きることになる。そのへその緒を「臍帯」と呼び、その中に含まれている血液を「臍帯血」と呼んでいるのである。

 そこでタイトルの「へその緒は誰のものか」に戻ろう。臍帯血違法取引に関連したニュースで、アナウンサーが繰り返していた「赤ちゃんのへその緒」の言葉に、へその緒は赤ちゃんのものなのか、母親のものなのかが気になったのである。赤ちゃんには赤ちゃんの血液型があり、母親には母親の血液型がある。父親の血液型との関係もあるだろうけれど、一致している場合もあるだろうけれど多くの場合は異なるだろう。

 血液型が母子で異なり、それが互いに混ざり合うとするなら、血液型不適合として恐らく胎児が育たないだろう。すると母親の血液から、血液型不適合を起こさないように酸素や栄養を胎児は吸収しなければならないことになる。胎児は胎盤からへその緒を通じて母親とつながつているので、その役割が胎盤にあるのか、それともへその緒にあるのかが気になったのである。

 その確認はすぐにできるように思う。つまり、胎盤の血液型なりへその緒の血液型を調べることで簡単に分ると思うからである。とは言え私に直接確認する手段はないし、私自身のへその緒を見たところで外見で血液型まで知ることはできない。

 それで手軽で便利、しかも簡単なネット検索に頼ることにした。ネットの信頼度は必ずしも高くはないけれど、検索結果を複数重ねることで信頼できる結果を導くことができるだろう。

 その結果は、胎盤は母親の臓器、へその緒は胎児の臓器だとわかったのである。胎児が血液型不適合を起こさない仕組みの妙は、胎盤にあったのである。人間以外の哺乳類にどの程度、人と異なる血液型があるのかはまるで知識がないけれど、生物は胎盤そしてそれと結ぶへその緒という摩訶不思議な機能をもつ臓器を結びつけることで、進化という複雑な発達を遂げることができたのである。

 胎盤が哺乳類だけに存在する臓器なのか、鶏の卵の中で発育中の雛にもなんとなくへその緒のようなものがついていたような気がしているし、蛙にへそのないことは知っているけれど、どこまでへその緒が生物の種に共通しているのかまるで私の知識にはない。

 それでもへその緒は生き残りの手段として選択した種としての遺伝的多様性の一つなのだろう。血液型の分化もまた環境への適応力の一つなのだと思うからである。へその緒にも、人は生物として進化してきたことの不思議さを感じ、今度の臍帯血事件の報道を通じて種の保存の力強さをしみじみと知ることができた。そして、へその緒は「母親のもの」ではなく、純粋に胎児のもの」、つまり自分自身の臓器なのだということも、しっかりと分ったのであった。

 とは言え、私の干からびたへその緒は、幼い頃に小箱に入っているのを見たことがあるとの記憶だけを残し、今もって行方不明のままである。現代でもへその緒は母子の絆の証しとして、わが子へ引き継がれる風習が残っていると聞いたことがある。だが、そうした習慣は、果たしてどこまで残されているのだろうか。そして子どもはどこまで絆としての実感を意識しているのだろうか。またこうした風習は日本だけでなく、諸外国にも存在しているのだろうか。





                                     2017.9.2        佐々木利夫


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へその緒は誰のもの