種の進化として、動物は発生として後順位に位置するだろう。そしてその中でも哺乳類、更には人類などは最新種、つまり最後位に属するだろうことは容易に想像できる。後順位になるに従って生物として高等であるなどと、人類が最後に生まれたことを自尊しようとは思わない。ただ、それにしても進化の後発が、少なくとも現在という地球環境に適合度が高い種族になっているだろうことは理解できる。

 種を保存することは、恐らく生物としての基本的な要素になるだろう。「種」として認定されるために必要な要件は様々にあるのだろうが、残念ながら私にその基本的な知識はない。それでも、例えば何らかの突然変異などで新しい生命の発生があったとしても、その生命に子孫を残すような手段なり機能がないとしたなら、それは「種」とは呼べないだろうと思う程度の知識はある。

 こう考えてくると、種の保存という機能なくして生命の継続はないことになり、それはそのまま一過性、もしくはその代限りの命が「種」として認定されることはないことを意味している。そうした意味で、「種が続く」ことは、少なくとも私たちが考えている「生物」として、欠くことのできない要件になるだろう。

 そしてその「種の継続」の基本として有性生殖がある。無性生殖の生物もあるし、自家生殖の生物もあるけれど、地球上の生物のほとんど、植物はもちろん昆虫や魚類、哺乳類など種類を問わず有性生殖(雄と雌とによる種の存続方法)を選択した。

 それを私たちは性と呼び、種の存続の基本と考えた。ただ、こうした手法が様々な混乱を生んできたことは、生殖をめぐる種内部における様々な抗争の原因となっていることからも分ってくる。メスがオスの誘いに乗らないことによる争いもあるだろうけれど、主としてはメスをめぐるオス同士の抗争が目立つ。

 その原因は、生存能力の高いオスの子孫を残すことが、種の存続として有利であることが原因だと説明されている。弱いオスを排除して強いオスの遺伝子を残すことが種の存続として有利であることが、オス同士の戦い、メスによるオスの選択などに表れるということであろう。

 しかし、強さとは必ずしも「筋肉」による力だけを示すものではないだろう。病気への抵抗力、寒さや暑さなどへの耐性、飢餓への耐性、餌の獲得能力なども一種の「力」となりうるだろう。そうした力はオスだけに求められるものではない。メスもまた多産であることや育児能力の違いなど、固有の環境への適応力の違いが種の保存の能力として求められることになる。

 そうした存続の必然から、生殖にセックスという行為が求められたのだろうか。特定のオスと特定のメスが一対一として生殖にたずさわる形式を、多くの生物が選択した。そうすることが、「遺伝的に優秀な種を残す」という使命に適合したのだろうか。

 その点に私は疑問を抱いている。適者生存という言葉は、強いものが生き残る、そのことで強い者の子孫が生き残ることを意味している。適者とは、環境に適合する力を示しているのであり、適合することそのものが「強さ」だと承認することになるからである。

 だが、私には進化がそのように推移してきたとは思えないのである。そうした意味での進化は誤りなのではないかと思っているのである。進化は雑多な突然変異から、たまたま発生したその環境へ適合した生命へと引き継がれてきたのではないかと思っているからである。

 確かに、弱肉強食は異種間のみならず、同種においても存在している。弱いオスは強いオスに駆逐されて、自らの子孫を残せないかのように見えるが、弱いオスはあらゆる場面で、種の生き残りに不適合だと言えるのだろうか。弱いオスでも逃げ足が早いことで生き残るチャンスが高くなる可能性もある。また、育児に携わる能力が強いオスよりも高いという能力があるかもしれない。それを単に「戦いに弱いこと」だけで判断してしまうのは誤りなのではないだろうか。

 種の変化が突然変異によるものであろうことは、私も信じている。ただ、その変異は、種にとって有利な方向にだけ現れてきたものではないだろうとも思っている。赤道直下で毛の長い暖房効果の高い変異が表れた生物だっていただろうし、北極で毛皮を持たない裸の生物が現れたことだってあるのではないかと思うのである。ただそうした種は、いずれ環境への不適合として絶滅へと進み、結果的に適者となるような変異に恵まれた種だけが生き残ってきたのだと思うからである。

 ただそうしたとき、生物がどうして今のような生殖方法を選択したのかが疑問なのである。植物の多くは「種(たね)」を拡散させ、花粉を撒き散らすことで子孫を残すこととした。魚類もそれに類似した方法を選んだ。だが陸上の生物はそうではない手段を選んだ。

 確かにそうした手段は、特に人類にとって特別な環境を与えることになった。恐らく「雌雄が一対一」というシステムが、恋愛だとか嫉妬などにつながる感情を熟成することになったのだろう。それが人類にとって望ましい生殖の目的であったとは思えない。他の生物にはそうした感情を持つような進化がなかったからである。

 それが人間特有の進化であり、だからこそ人間という種が特別なのだと言われればそれまでのことかも知れない。だが単純にその進化を喜ぶだけでは済まないような気がしている。進化の方向は多様であり、プラスなりマイナスなり、向きもそして力強さも違うのが突然変異なのだと書いた。

 だが人類の進化の方向はどこか一方的である。それは進化なのではなく、私たちが選択したことによる捻じ曲げられた進化になっているような気がしている。そして、もしかしたら私たちの選択したこうした方向は、間違っていたのではないかとすら思える。生物として最後発の人類が、間違った進化方向を選択したのではないか、そしてその選択が人類を絶滅へと誘っているのではないか、そんなふうに思えてきているのである。


                                     2017.9.13        佐々木利夫


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セックスと生殖