生活していく中で、「ほとほど」、「まあまあ」といった対応がそれなり必要だということは理解している。だから、私が日ごろから心がけている「事実の認定は、証拠による」(刑事訴訟法第317条)の思いだって、日常生活などの場で頑なに適用することが、どんな場合にも正しいとは言い切れないだろう。

 こうした認定方法は、基本的には刑事責任で有罪無罪を追及する法廷などの厳格な場面で適用されるルールなのだろうと思っているからである。それでもニュアンスの程度はともあれ、好悪や疑いなどの軽い判断をする場合であっても、そのことを他者を説得するためには根拠となる証拠を示すことが、大切な要素となるのではないだろうか。

 「安倍総理大臣が嫌い」であることや「○○という俳優が大好き」、「ここに置いた自転車がなくなったのは××が持っていったからに違いない」などなど、人は様々に思いをめぐらすことで毎日の社会生活を営んでいる。腹が痛い、空腹だ、このテレビドラマが面白いなどなど、恐らく人の日常生活は「なんらかの判断をすること」で成り立っている。

 それは自問自答の場合もあれば、夫婦や親子での会話、職場での説得や選挙での投票などもあるだろうし、相手がいるいないも含めて適用される場は多様である。ただ、そうしたすべてに例えば「腹が減った」ことにまで証拠を示さなければならないなどとは思わない。それは自分の感覚だけで十分だと思うし、「ある人が好き、嫌い」にしたところで、「私はそう思っている」だけの範囲に止まっているならば、証拠までは必要とされることはないだろう。

 しかし、そのことについて他者の同意を求めるのであれば、どんな場合でも相手を説得できるだけの証拠を示す必要があるのでないだろうか。殺人事件があったとして、ある人が犯人であるとの証拠のないことがその者が「殺さなかったこと」の証明になるわけではない。単に「殺したことの証明」がなかったに過ぎないだけである。だからと言って、疑いだけで犯人にして死刑にすることなどできないことは誰にでも分る道理ではないだろうか。その者が殺人を犯したことが客観的に証明されて始めて、その者が犯人とされるのである。金銭の貸し借りや、あるものの所有権の帰属などでも同様である。

 ところがこれに反して、証明されていないのに犯人だと認定される、そんな事件があろうことか国際的な場で行われたことに私は驚き、改めてこの刑事訴訟法の規定を思い出したのである。

 それは2017年4月9日に行われた、アメリカ軍によるシリア攻撃である。アメリカのトランプ大統領は、シリアを化学兵器を自国民に使用したことを非難して空軍基地を爆撃したのである。その攻撃は相手国に通告することもない、一方的な行動であった。

 目的は「化学兵器の使用に対する批判」であり、「将来の使用への禁止」である。シリアの空軍基地を攻撃したことの是非は、とりあえず置いておこう。行為に対する報復のバランスはそれ自体問題になるとは思うけれど、今はそこまで考えないことにする。

 私が驚いたのは、アメリカがシリアが自国民に化学兵器を使用したと主張しているだけで、なんらその証拠を示していないことであった。私自身日本の片田舎で、ビール片手にのんびりと平和論を語るような、いわゆる平和ボケみたいな存在だから、この事実について知るところは少なくとも自力ではまったくない。メディアの情報をそのまま鵜呑みにするだけの知識でしかない。

 だから、シリア政府が実際に化学兵器を使用したかどうかについての、自らの力で確かめた知識は皆無である。それはつまり、「納得できる証拠」を示してくれるかどうかにかかっているだけのことにしか過ぎない。例えば、アポロ計画で月に着陸したことだって、そうした中継映像や会話などが仮に捏造された証拠だったとしても、私はそれを否定できるだけの知識ない。そのことは、「示された証拠の真偽」を判定する力を私は持っていないことを意味している。

 それでも、少なくとも「シリアが化学兵器を使用した」との事実を示す証拠を、爆撃したアメリカは呈示すべきだと思うのである。それが、この攻撃問題の出発点であり、報復にいたる国際的な手続であるとか相手の行為に対する報復手段のバランスなどはその次に来るものだと思う。

 私は「シリアが自国民に化学兵器を使用した」との認定が、事実と違うと言っているのではない。使用したことの事実をアメリカが立証していないと言っているのである。シリアが言う「反政府勢力による自作自演、アメリカ政府の陰謀」との主張だって、シリア側から証拠は示されていないのだから、互いの水掛け論状態になっている。つまり、少なくとも今の段階では、「誰がやったのか分からない状態」なのだと思う。

 「シリア国民に化学兵器が使われた」、このことは事実として認められる。利害なしに使用することは恐らくないと思われるから、シリア内紛の当事者である「シリア政府」、「反政府勢力」、「イスラム過激派」、そして政府軍を支持しているロシア、反政府勢力を支持しているアメリカなど、三つ巴五つ巴を描いている関係者いずれかによる作為なのかもしれない。そして可能性は低いと思われるけれど「被害者自身による演出」だってないとは言えないだろう。それ以外にも、どこかの国のスパイなり武器商人がシリア紛争の混乱・拡大を狙ったとの考えもないとは言えない。ただ、化学兵器の投下は空爆によったものらしいので、そこまで広げる必要はないかも知れない。

 そんな状況下で、私には「シリア政府」が犯人と断定することはできないような気がしてならない。確かに事実を証明する証拠がなくても、状況証拠の積み重ねで事実を認定できることもあるだろう。だが、私の耳には、「シリア政府ならやりそうなことだ」くらいの情報しか入ってこない。せいぜいが「過去に化学兵器を持っていて使用したことがある、国連の指示でその兵器を廃棄したという事実がある」(つまり前科)程度のものでしかないような気がする。

 アメリカはシリア政府が今回の化学兵器攻撃に関して「計画し、指令し、実行した」との証拠があると主張している。だがその証拠を、国民はもとよりメディアにも知らせることはなく、少なくとも他国や国連にも示していない。もしかしたら公表していないだけで、そうした状況は秘密裏に特定の国家間では共有されているのかも知れない。だが現に「証拠がない」と主張している国連加盟国がいくつか存在しているのだから、国家間の共通認識だとは言えないだろう。

 「シリア国民に化学兵器が投下された」、この事実は認められる。おぞましい兵器使用として、「これ以上の投下や拡大は禁止すべきである」ことにもまた異論はない。投下した者に報復として爆撃を加えることも、バランス論はともかくとして、とりあえずは承認してもいいだろう。だが、証拠をあげて実行者を特定できていないままでのこれらの行動は、基本的な誤りを犯しているのではないだろうか。

 こうしたアメリカの報復攻撃に、安倍総理は賛意を示した。「化学兵器の拡散と使用は絶対に許さないとの米国政府の決意を支持する」、「米国の行動はこれ以上の事態の深刻化を防ぐための措置と理解している」など、もろ手を挙げての賛成とは微妙な言葉の違いを見せてはいるものの、アメリカによる報復攻撃を承認したのである。犯人が証拠で特定されていないにもかかわらず、「○○に違いない」、「○○が犯人だとする証拠がある」とのアメリカの言い分を根拠に承認したのである。

 こうした安倍総理の行動は、私にはとてつもない誤りだと思えてならない。彼の発言は、シリア政府が犯人であることを日本が承認したことになる。でも証拠の呈示のないままに犯人を名指ししてしまったことは、仮に後日シリア政府による実行が証明されたとしても、遡及して正当化されるものではないだろう。決して、決して「結果が正しければ」程度の言い訳で許されるものではない、そんな風に私は頑なに信じているのである。


                                     2017.4.14        佐々木利夫


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証拠と事実